このところで、たじたじとなって、ああ、つまらない、なんだか世の中が味気ない気持になったよ――歴史のことも、英雄のことも、兵馬の念頭から消滅して、呆然《ぼうぜん》と立ち尽した越前と近江の国境――そこで兵馬は後ろ髪を引かれている。
行こか越前、帰ろか近江、ここが思案の柳ヶ瀬の峠――
そこへ、行手、すなわち近江路の方から、高らかに詩を吟じて上り来《きた》る人声が起りました。
五十九
兵馬が待つ心地で立っていると、彼方《かなた》から上って来るのは、たった一つの笠、しかも背の低い、ずんぐりした書生体の青年であることが、一目見てはっきりとしました。
近づき来《きた》るをよく見れば、白い飛白《かすり》の単衣《ひとえ》をたった一枚着て、よれよれになった小倉の袴をはき、頭には饅頭笠をかぶり、素足に草鞋《わらじ》をつけ、でも、刀は帯びているが、それ以外には旅の仕度もしてなければ、荷になるほどのものも持ってはいない。肩から一つ、ズックのカバンのようなものを釣り下げているばかり。
そこで、兵馬と行き逢いました。人跡の稀れな山中の出会いですから、おたがいに言葉をかけ合うのが当然です。
「こんにちは――」
と先方が、笠をかたげてまず兵馬に挨拶をしかけましたから、兵馬も、
「やあ」
と言いました。先方は第二句をつづける代りに、兵馬の立っているすぐ足許《あしもと》へ、どっかりと腰を卸してしまい、
「幸いに、好天気ですな」
存外、世間慣れた口の利《き》きぶり。兵馬は一見して、これは遊学の書生だと思いました。同じ書生にしても、丸山勇仙のように世間ずれがし過ぎたのではなく、相当度胸があるが、一面、極めてウブな青年だと思いました。
「ドコにおいでです」
と兵馬から尋ねられて、
「これから、越前の福井へ帰るです」
「ドコからおいで?」
「近江の胆吹山《いぶきやま》から参りました」
越前福井へ行くというのは常道だが、胆吹山から来たというのが少し変です。
「胆吹山から――」
兵馬も不審を持ちながら、この青年を相手に少し話して行こうと、自分も路傍のほどよき木の根に腰を卸して、青年と押並んで話しよい地点を保つと、青年が、
「胆吹山で、少し働いておりましたが、これからひとまず故郷の越前福井へ帰ってみようと思います」
「胆吹山で何を働いておいででした」
と兵馬がたずねたのは、最初から胆吹山というのが気にかかったからです。この青年は山稼《やまかせ》ぎをすべき青年ではないし、山稼ぎをして来たとも思われない。神戸から来た、大阪から来た、彦根から来たといえば、そのまま受取れるが、山から来たということが、そぐわない思いでした。それを青年は、御尤《ごもっと》もと言わぬばかりに、問われない部分まで、差出でて兵馬に語り聞かせます――
「御存じでございましょうが、胆吹山にこのごろ、例の上平館《かみひらやかた》の開墾が起りまして、そこに一種の理想を抱く修行者――同志が集まって、一王国の生活を企てている、そういう風説《うわさ》を聞きましたものですから、僕は越前の福井からかけつけて、右の団体へ加入してみたんです。僕のは、必ずしも、あの団体の主義理想に共鳴したというわけではありません、本当を言うと英学がやりたいんです。僕は非常に外国語をやりたいんでしてね、それも、今はもう蘭学ではいけないそうです、蘭学は古いんだそうですから、ぜひ英学の方をやりたいと思って、諸所に師匠をたずねましたが、どうも評判倒れが多くて、本当に英学の出来る学者というのが少ないんでしてな、困っておりました。ところが、聞くところによりますと、胆吹の開墾王国の中には、すばらしい語学の達者な人が隠れている、そのほか、あの団体の中には、世を拗《す》ねたエライ人物が隠れて加わっているという風説を聞きましたものですから、僕は故郷を飛び出して参加したんですが、どうも、僕の頭では、あの人たちの行動がよく呑込めません。しかしまあ、体力相当に、開墾の方もやれば、炭焼もやり、帳面つけなども致しましてな、留まっているうちに、その英学の方は、御当人は出来ないけれども、いい先生を紹介してやると言ってくれた先輩がありましてな、その人から紹介状をもらいました。その先生は江戸におられるのです、当時、英学にかけては、その右に出でる人はあるまいとのことですが、なんにしても身分が旗本のいいところですから、なかなか入門がかなうかどうか、面会すら許されるかどうかわからないが、とにかく、胆吹山の先輩に紹介状をもらいましたものですから、これからまた故郷の福井へ帰って、旅費を工面《くめん》して、江戸へ向って出直すつもりで、それで、胆吹山を立って参ったんです」
青年は能弁に、すらすらと、問われない部分まで明快に話し出したものですから、その物語りだけで
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