い、あちらの方にいるかも知れません」
「左様でございますか」
猫をたずぬる主は手燭《てしょく》を点《とも》して来ましたが、それをかざして室内を照らそうとしたが、室内が広きに過ぎて光が隈なく届きません、そこで、おもむろに一足、また一足、いずれにも尋ぬる物の体が一目には見出し難いものですから、ややもすれば消えなんとする手燭を袖屏風《そでびょうぶ》にして、また一足、また一足、怖い人穴の中へ忍び入るような足どりも、愛するもののため故の勇気で、その愛するものというのが、人でなくして猫であるだけの相違でした。でも、かよわい女が、この夜中に、知ってか、知らずにか、こういう物凄い気分のひそむ室内へ、独《ひと》り忍び入るということも、愛すればこそで、その怖る怖るの一足一足が、どうしたものか、竜之助の寝ている方へ近寄って来ました。
途端に、よろよろして、よろけたものですから、細い腰が一たまりもなく崩折れて、そうして、まともに寝ている竜之助の上へ、身体《からだ》の全部を以て落ち倒れかかったものですから、全く夢を破られぬわけにはゆきません。
今までは、夢であったり、うつつであったり、特におでん燗酒《かんざけ》のせいであったり、茶碗酒の勢いであったりして、夢中、夢をたどる中に、猫を一匹犠牲に上げてしまったことは、やはり半酔半眠のうちに記憶をとどめているが、人間がまともにぶつかって来た時には、真実の現在にかえらないわけにはゆかない。ガバとして竜之助がハネ起きました。
倒れた女は当然、竜之助と重なり合った体勢にまで崩れてしまった。
「あれ!」
と言ったきり、恐怖と、失策とにおびえて、しばし口が利《き》けないで動顛しておりましたが、これが竜之助であったから仕合せでした。落ちかかる女の体を、よく支えて、それを横抱きに抱き起したなりで、自分も起き直ったのですから、双方の身体にいささかの被害はありません。
「まあ、何とも申上げようもないそそうを致しました」
「いいえ、なんでもないです」
「玉を探しに参りましたばっかりに」
それでも、もう一つ異《い》なことは、こんな場合にも手に持っていた手燭の火が消えなかったことで、これは一種の奇蹟でありました。この残照を娘は無意識的に拾い取ると、すぐ眼の前の大きな行燈《あんどん》が眼にうつりますと、その行燈へ、手燭の火をうつしてしまいました。孫火をうつしたような親火が大きくなると、娘は、その光で、自分が失礼をした当の人を見届けようとする先に、またこの人に失礼の重々のお詫《わ》びをしなければならない先に、室の四隅をおろおろとして見やったのは、人よりは猫が可愛かったからです。そうすると早くも認めた丑寅《うしとら》の方一隅に向って、
「あれ、あそこに玉が――」
かけつけて、手燭をつきつけた、そのホンの瞬間から、娘が声を放って泣きました。
「あれ、玉が殺されている、玉が死んでいる、あれあれ玉が――」
ここに竜之助なる人間の存在などは、全く眼中にも脳中にも置かず、ひとり舞台の狂乱でした。
四十五
娘は、そこで絶え入ってから、三日の間は、猫の死骸を抱いたまま枕が上らなかったそうです。
竜之助は、その夜の明けないうちに、またここをさまよい出でて行方が知れません。
その夜が明けても、誰もこの座敷をおとなうものがありませんでした。いつもならば御陵隊士の片われだの、それを訪ねて来る浪客などで甚《はなは》だ賑わうのですが、いつになっても人が来ないだけに、かえってすさまじいものがあるのです。
しかし、表向き隊の屯所《とんしょ》の方面は、今暁、昨晩からかけてものすごい人の出入りで、ものすごい殺気が溢《あふ》れ返っていると見えたが、それも、やがて、げっそりと落ち込んだように静かになってしまったから、今朝の月心院の庫裡《くり》の光景というものは、冷たいような、寒いような、生ぬるいような、咽《む》せ返るような、名状すべからざる気分に溢れておりました。
そこへ、饅頭笠《まんじゅうがさ》に赤合羽といういでたちで大小二人の者が、突然にやって来て、溜《たまり》の前で合羽をとると、警板をカチカチと打つ。
「おう!」
と答えて中から出て来たのは、これより先、いつのまにか来着して一隅に寝ていた一人の壮士でありました。
そこで、右の三人が、例の獅噛火鉢《しがみひばち》の周囲《まわり》に取りつくと、合羽を取った大小二人の者は、南条力と、五十嵐甲子雄でありました。
「いやはや、すさまじいものを見せられた、先般の池田屋斬込みよりも、これはまた一段の修羅場《しゅらば》だ、やりもやったり!」
と三人のうち、誰からとなく、まず斯様《かよう》に口を切って、しばらく沈黙が続いたのは、つまり、三人が、おのおのまずお座つきに発すべき感歎詞が、期せずし
前へ
次へ
全101ページ中49ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
中里 介山 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング