、いま二人の恋物語を語るにつれて、情がうつって昂奮して来る様子と言い、どうやらお前さんも只者《ただもの》ではないようだ、まだ枯木となって、世の春にそむく年頃でもあるまい」
と言って、近寄って、その手にさわってみると、どうしてどうして、その手がまるく肥えていた。
「あなた様、怪体《けたい》なことをなされますな」
と尼さんは言ったが、驚いて飛び上りもせず、そのさわられた手を引っこめもしなかった。
 果して、相当|海千《うみせん》の女であったよ、わしが一人でさまよい込んだのを、いいかげんの相手と、つかまえて放さず、朝霧と重清の恋物語に持込んで、情をうつしたのは、まあ相当の手とり者だった。おかげで、おれも無益の殺生《せっしょう》をしないで済んだというものだが、いったい、京都は女の多いところだと、そもそもこの時から嬉しくなりはじめたのは馬鹿な話さ。

         四十四

 破産者の笑いそのもののうつろな笑いのうちに、机竜之助は、仰向けに横になって気を吐いていたが、もう気の利《き》いた化け物は引込んでしまい、よよと泣く声もなければ、わあわあと合わせるバスもなく、柱も、長押《なげし》も、すっかり闇のうちに没入して、あの真白い、しなやかな手首も、下手な左官屋の真似《まね》をする芸当をやめてしまい、四方《あたり》が森閑とした丑三《うしみつ》の天地にかえりましたものですから、さしもの竜之助も疲れが一時に発したものと見えて、仰向けに寝たままで、すやすやと寝息を立てる頃になりました。
 その時分に、不意に、シューッと音を立てて、仰向けに寝ている竜之助の体の上を、いなずまのように走り去ったものがあるかと思うと、それにつづいて、真白い塊りが一つ、雪団子が落ちて来たように、同じく竜之助の体を踏み越えて行こうとしましたが、寝入りばなの竜之助が許しませんでした。二番目に来た物体を、むずと右の手で押えて動かさないので、そのものがギューッと言いました。
 この物体というのが、他の何物でもない、猫です。前に竜之助を踏み越えたそれより小さい物体も、珍しいものではない、ドコにもいる鼠という悪戯者《いたずらもの》であったのです。猫と鼠とは前世からの敵同士《かたきどうし》で、猫は鼠を捕るように出来ているし、鼠は猫に取られるように出来ている。その造化の造作を造作通りに行ったまでのことで、少しも怪とするにも、異とするにも足りない。
 ただ前の前世の仇は、ともかく首尾よくこの飄客《ひょうかく》の体の上を、無断通過することに成功したけれど、あとからの前世の敵は、それに成功すべくして途中で意外な魔手にさまたげられたというだけのことでありました。
 だが、人間というものは、猫を飼うべく出来ているもので、猫を殺さねばならぬ前世の宿縁というようなもののないはずであるのに、罪のないのに南泉坊に切られたり、こんなところへ出現したり、非業なものに出来ておりました。寝入りばなの竜之助は、つづいて追いかけて無断突破を企てたその猫めを、単に木戸をついて妨げたのみではありません、それを払いのけてかっ飛ばしたというだけのものでもありません、猫めの頭と首のところを持って、無慈悲にそれを掴《つか》んだために、掴みつぶしてしまったのです。それ故に猫が、
「ギャッ」
と言いました。そのギャッはなまなかのギャアではない、断末魔の叫びであったのを、かわいそうとも何とも思わずに、そのまま一方に向って邪慳《じゃけん》に取って投げたものですから、遥《はる》か隔たった一方の壁にしたたかぶっつかって、そこで改めて、
「ギュー」
と言いました。ギャッと言った時が、すでに致命なのですけれども、死後の空気がまだ少し脈管に溜っていた。それが、「ギュー」という声で完全に吐き出されて絶望の境に入りました。もうこれ以上、打っても、叩いても、息もしなければ、音《ね》も揚げません。
 そうして置いて、そのしたことを、無自覚のような昏睡《こんすい》のうちに、竜之助は再び夢路の人となったのですが、その夢路もあんまり長い時間のことでなく、またしても、うつつにその夢をさわがすものがあることを、昏々として眠りながら、うるさいことに苦々しがっている耳もとで、
「モシ、あの、玉が参りませんでしたか。玉や、玉や、またお前、ドコぞへ行きましたか、また人様に失礼なことをしてはなりません、さあ、こちらへおいで、玉や、玉や」
 よくまあ、いろいろのものが出て、自分の安静をさまたげることだ、今の猫でケリがついたかと思うと、そのまた猫を探しに来た人間がある、その人間に挨拶をしていた日には、また続いて何が出て来るかわからない。
「猫はおりませんよ」
 うつつで、竜之助が言うと、
「あ、左様でございますか、それは失礼を致しました」
「もしや、壁の隅の方を見てごらんなさ
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