重姫――お八重ちゃんという娘を、これに娶《めあ》わせたのは、親としてしかるべき心づかいだ。且つまた、なさねばならぬ義務を果したのだ。そこで、それがそのまま、市《いち》が栄えれば何のことはないが、恋愛というものは生死《いきしに》なんだ、失うか、得るかよりほかには、妥協というものが利かないんだから、やりきれない。父の定めた伉儷《こうれい》が成立してみれば、自分の作った恋愛はあきらめなければならぬ、それをあきらめると、当然一人の犠牲者を出さなけりゃならぬ、この場合の失恋者が、とりも直さず官女の朝霧なのだ。彼女は深く恨んだ、その結果が、食物を断って死んだ――
 その辺を語る時に尼は、さめざめと涙を落していたようだが、似つかわしい新夫婦のために同情せずして、不義の交りを楽しんでいた官女に同情を持つところが怪しからん。何か身につまされるものが深かったればこそだろう。おれは、そういう事は世間にあることで、また有り得ることだ、世間の神仏にある取りとめもない誇張の縁起物語と違って、失恋の結果、自分の生命を断つということは自然であって、無理でない、恋というやつは、それを失っては生きられないものだ、という理窟をそのまま受取る。そこで、兵部重清も、もともと深く焦《こが》れた仲だから、それが菩提《ぼだい》の種となって出家を遂げた。つまり、新家庭を抛棄して、出家入道の身となったのは、遅蒔《おそま》きながら朝霧の純情に殉じたものだ。死して魂魄《こんぱく》となっても、女はその殉情に満足を感じたに相違ない。つまり、生きて遂げられぬ恋が、死して円満に成就《じょうじゅ》したということになって、その艶話は一応実を結んだが、それ、恋というやつは戦と同じことで、勝敗だけがあって、妥協というものがないのだ。あの世と、この世だが、とにかく二人の恋が再び好転してみると、当然またここに一つの犠牲者が現われてしまった。その後のお八重さんはどうした、父の定めて取ってよこされた八重姫なるものが、それよりはじまる無惨な落伍者の運命を、堂守の婆さんは気の毒とも言わず、哀れとも思わず、それはそれだけで立消えて、そんなことは、眼中にも、脳中にも置かないでいたのはヒドいぞ、片手落ちだぞ。官女と重清の、はかない恋の成就に祝福を送ることだけを夢中に口走って、若干の肉声までも交えながら語り聞かせたくせに、公定の女房のその後の心理と境遇には、なんらの触るるところがない、全く存在を眼中に置いていない話しぶりだったが、やっぱり、かれに同情すべくして、ここに同情なり難きおのれの身の上に引きくらべての利己心から出た恋愛の讃美に過ぎない。
 さて、出家を遂げた重清は、それから紀州のなにがしの島とやらへ庵《いおり》を結んで、行いすましていたが、ある時、劇《はげ》しい疾病に取りつかれ、苦悩顛倒している枕許へ、官女朝霧の亡魂が鬼女となって現われ、重清入道を介抱して、その頭を撫《な》でると、さしもの病苦が忽《たちま》ち平癒した。わざわざ病気見舞に来るまでの親切があったなら、なにも鬼の面などをかぶらずに、素地《きじ》の※[#「藹」の「言」に代えて「月」、第3水準1−91−26]《ろう》たけた官女で、十二単《じゅうにひとえ》かなんぞで出たらよかりそうなものを、鬼に撫でられたんでは、入道もあんまりいい心持もしなかったろうけれど、利き目は確実にあったらしい。その功積って、重清入道も、朝霧の魂魄も、共に成仏し、末代その証《あかし》として、重清入道は死ぬ時には己《おの》れの頭を残すように言って置いたが、後世、その頭をここに祭って、あがめて鬼頭天王と申し奉る、これが、すなわち鬼頭様の由来だと、堂守の尼が細かに説明してくれたのを、手にとるように覚えている。
「そこで堂守の婆さん、お前さんに聞いてみたいのは、何のよしみで、お前さんが、その恋塚の堂守をなさるのだね。後伏見院の御代《みよ》だということだから、十年や二十年の昔ではあるまい、まさかお前さんが、重清入道や、朝霧官女の身よりの者という次第でもなかろう、世が世ならば当然、その第二の犠牲たるお八重さんという正式女房のする役まわりが、今のお前さんの役目というところだが、無論、お前さんがそのお八重さんの成れの果てであろうはずはない、もし、そうだとしたら、そういう片手落ちの同情ばっかりはせぬはずだが、お前さんのは、ただの堂守ではなく、全く二人の恋愛の成就に同情しきっている、そこの気持がよくわかるだけに、お前さんの立場がわからない、どうです、婆さん――婆さんと言ったのは、ついした口うらだから勘弁して下さいよ、どうお見かけしても、いや、この暗いとこから、どうお聞き違いしても、お前さんは四十以上の女ではない、四十といえば女が世を捨てるにはまだ早い、それに声もよし、品も相当備わっておいでだし、ことに
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