けに、三杯、四杯と呷ると、その一杯毎に、無性に気分が面白くなる。珍しく浮かれて、立って、踊って、舞おうとの気分にまでなりました。
 その時、よよとして人の泣く音《ね》。

         四十三

 ああ、はじまったな、よよと啜《すす》り泣き、わあ! と咽《むせ》び泣き、ふたり相擁して泣く男女の二部合奏。
 出端《でばな》に聞いた合方《あいかた》がまた聞けるわい。陶然として酔うた竜之助は、それを興あることに聞きなして、その声のする方を注視していると、なるほど、真暗い中から、まぼろしが出て来た。
「出たな!」
 そうして、うっすらと、弘仁ぶりの柱と長押が、十字架のように現われると見ると、ひらひらと蝶の舞うように、細いきゃしゃな手が、宙に浮いて来て、その柱を下の方から撫《な》で上げる、と見る間に、柱は暗に吸いこまれるように消え失せて、白いしなやかな手首だけが、暗の空中に舞っている。それが、ひらひらとある程度まで上へ舞い上っては、また、右左の柱の方を、撫でさぐると、やがてまた、よよと泣く音、わあ! と絶望の泣落し、それが相ついで、何とも言えない悲哀の響きを伝えるが、竜之助は、この声ある毎にカラカラと笑いました。
 途中も走って来た、かけつけ三杯にグッと茶碗酒を呷《あお》ったものですから、酔のまわりも異常に利《き》いたのでしょう。その勢いがあればこそ、泣合せの合奏と、手のひらの芸の影絵を面白いことにながめられる。全く今宵に限って、なんて世界がこんなに面白いだろう。同じ酔ったにしても、昨晩はこんなことはなかった。ゆくりなく島原の角屋《すみや》の御簾の間の昔に返って、あそこへ寝てみたが、べつだん面白い夢は見ないで、悪ふざけの実演を見たのか、見せられたのか、最後にいささか溜飲を下げることではあったが、決して、面白かったとは言えないのだ。
 それが今晩は面白い。出て行くまでは、そんなではなかったのに、帰りに向って宙を飛ぶ時から面白くなった。いや、松原通りでひっかけたおでんかん酒の利き目が、ここまで来て発したところへ茶碗酒の迎えが、めっぽう利いた。こうも面白おかしい気分のところへ、誂《あつら》えもしないのに音楽の合奏と、頼みもせぬに映画の上演とがあって興を添えてくれる。
 なんだか面白くてたまらない竜之助の脳底へ、音楽と、映画とから、いろいろの想像が続々と湧いて来る。いま盛んに実演中の二人の泣き声が、いつしか、近江の、大津の宿のお豊と真三郎の姿を浮き上らせて来る。その真白い手は、僧の形に姿を変えた真三郎が、しきりに焦《あせ》って伸ばす手だ――届かない、お豊が助けて抱き上げて、背たけのつぎ足しをしてみたが、それでも届かない。そこで二人が崩折れて、よよとばかりに泣いている。
「馬鹿な奴、いくら探したって無いものは有るものか、いいかげんにあきらめて往生しろよ、毎晩毎晩そうして合奏をつづけては、下手な左官の壁塗りのような、薄っぺらなうつしえの実演をやりつづけているそうだが、塗直し、焼直しも、そうそう手が重なっては、凄くもなんともないぞ、市中では鬼頭堂の堂守まで鼻についているぞ、いまに犬も食わないことになるぞ、いいかげんに引込め、引込め」
 いや、鬼頭天王の堂守といえば、もういい年だが、あれで若い時は相当に美《よ》かったぜ、今こそ堂守で行い澄ましているが、まだ見られる色香、いや、まだ聞かれる声だった。
 鬼頭天王とは、いったい何だと反問したら、あの堂守の尼が、妙に上ずった肉声をあげて、こんなことを聞かせたぞ――
 昔、北面の武士に兵部重清《ひょうぶしげきよ》というがあって、それが正安二年の春、後伏見院が北山に行幸ありし際、その供奉《ぐぶ》の官女の中に、ええ、何と言ったかな、そうそう、朝霧という美女がいた、それを兵部重清がみそめてしまった、つい、いい首尾があって、連理の交わりとやらを為《な》したそうだ。今晩は頭がいいので、尼の口早に話した人の名も、年号も、ちゃあんと覚えているぞ。その上に、連理の交わりだなんて洒落《しゃれ》た文句も覚えている。あの堂の婆あめ、その艶物語《つやものがたり》を語る口に肉声を帯びていたのは怪しからぬ、恋と無常を語り聞かす枯れきった声ではない、あれではまだ相当の年だ、四十かな、三十代は過ぎてるらしいが、五十の声はかからないぞ。おれが一人、さまよい込んだので、彼女も異様に昂奮したか、頼みもせぬに、その重清と朝霧の恋物語を、からくりの口上もどきで、面白おかしく語り聞かせたが、さあ、それから二人の身の上はどうなったかといえば、左様、二人の仲を、重清の父が見て、これを危ぶんだ――というのは、相手がやんごとなきあたりの官女では、悴《せがれ》の行末が思われたからだろう。そこで、体《てい》よく悴を口説《くど》いて、別に似合わしい縁辺を求めて、八
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