おの》れが膝の上に掻《か》きのせたままで、
「近藤に虎徹は、猫に鰹節《かつぶし》のようなものだ」
 あんまり適切でもない苦しい譬喩《ひゆ》を口走っている時に、竜之助が、
「拙者も、刀が欲しい。拙者はあまり作に頓着しない方なんだが、やっぱりいい刀は持ちたいよ。それ以来、旅から旅で、腰のものにさえ定まる縁がないのだ。一本、何か周旋してくれないか、古刀には望みがない、新刀のめざましいところを一本、世話をしてくれないか」
と、人の勧誘はそっちのけにしてしまって、自分勝手の註文を持ち出したが、斎藤も好きな道と見えて、
「よろしい、何か一つ探してみよう。清麿《きよまろ》はどうだな、山浦の清麿――つまり四ツ谷正宗」
と、猫のうしなっこぞ[#「うしなっこぞ」に傍点]を持って宙につるしながら、こう言い出したところへ、遥かに次の間から、猫よりもっと不思議な生物《せいぶつ》が一つ現われました。

         三十九

「モシ、こちらのお座敷へ玉《たま》が参りませんでしたか」
「あ」
と斎藤がふるえ上って、思わず手にした猫を振り放してしまった。
「おお、玉や、玉や、ここにいたかい」
 入って来たものは、何とも言いようのないしなやかな美人でした。それが、寝まき姿のしどけない風《なり》をして、不意にこの場へ現われて呼びかけたのは、人でなくして獣《けもの》でありました。
 獣のうちの最も人に愛せらるる獣にして、且つ最も小なるもの、この獣を玉と言い、この美人の愛猫でありました。
 愛は怖ろしいものです。婦人として、他人には見せてならない寝巻の姿のまんまで、そうして進んではならない他人の室へ、女として無断に入り込んだのも愛すればこそです。人を愛するのではない、猫を愛すればこそでありました。
「あ、ここに来とりました、お持ち帰り下さい」
 血を見ては怖れない新撰組のつわものの一人で、さる者ありと知られたる斎藤一も、この深夜の美人の突然の来襲には、いたく肝を抜かれたと見えまして、さも自分が猫を盗み出してでも連れ来《きた》って、申しわけのないような口吻《くちぶり》であやまるのが笑止千万。
「まあ、何という失礼ななりで、ごめん遊ばしませ、玉や」
 猫におわびをしているのだか、人間におわびをしたのだかわからないほどに挨拶をして、足もとへ寄って来た猫を拾い上げると同時に、頬へ押当てて頬摺《ほおず》りをしながら、逃げるように出て行ってしまいました。それだけです。だが、それだけの出入りが、この部屋の空気を震動させたこと容易なるものではありません。震動ではない、ほとんど一変させてしまいました。
 今は近藤勇も、虎徹も、清麿も、いずれへか影をひそめてしまって、残るものは、今の女性が残して行った雰囲気の動揺だけであります。眼の見えない方は、さのみ動揺はしなかったのかも知れないが、眼の見える斎藤は、美人の夜襲に心身を悩乱せしめられたと見えて、
「あれだよ、君、一件の女は、ああ、見ようとする時には見られずに、意外の時に、正体を、あのしどけない姿は、お釈迦様でも拝めまい、ああ、千載の一遇だ」
と言って、とってもつかぬ長大息をしたので、相手の竜之助が、
「美《い》い女だったな」
と言いました。
「美い女――君にはどうして、いい女か、醜《わる》い女か、それがわかる、まあ、いいや、勘でわかるとして置いて、事実、女もああなると凄《すご》いね」
「まだ若いな」
「若いにも、まだ嫁入り前なんだ、しかも、たまらぬ由緒のある女なんだ、あれを今晩、この座敷で拝もうとは思わなかった――しかも、あのしどけない寝巻姿の艶なるを見給え、迷うよ、仏でも迷うのは無理がないなあ」
 斎藤一が、二たび、三たび浩歎して、続いて物語るよう、
「君、実際あの女は、仏を迷わした女なんだが、いいか、まあ、さしさわりのないその辺の京都名代の大寺の住職に毒水禅師というのがあったと思い給え、これは近代の名宗匠《めいしゅうしょう》で、会下《えげ》に掛錫《かしゃく》する幾万の雲衲《うんのう》を猫の子扱い、機鋒|辛辣《しんらつ》にして行持《ぎょうじ》綿密、その門下には天下知名の豪傑が群がって来る、その大和尚がとうとう君、あの女にやられてしまったんだぜ」
「いったい何者なのだ、処女か、玄人《くろうと》か、商売人か――」
「何者でもない、単にその寺の門番の娘に過ぎないのだ。門番といっても、もとはしかるべきさむらいなんだそうだ。ところで、その毒水禅師というのが、修行者の間には悪辣なる大羅漢だが、一般の善男善女の前には生仏《いきぼとけ》と渇仰される生仏だから、仏の一種に相違あるまい、その仏を迷わせて地獄に堕《おと》したのが、今のあの手弱女《たおやめ》だ。と言えば、今の女が相当の妖婦ででもあって、手腕《てくだ》にかけて禅師を迷わしたものでもあるか
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