に受取れるが、事実は、妖婦でも淫婦でもなんでもない、尋常の門番の、尋常の娘で、ただ、世間並みよりは容貌が美しかったというに止まる、それを七十を越した禅師が、ものにしてしまったのだ、どうした間違いか、七十を越した禅師がむりやりにその蕾《つぼみ》の花を落花狼藉とやらかしたんだ。それが問題になって、毒水禅師は、あの大寺から辺隅の寺へ隠居、これが出家でなかったら、また世間普通の生臭御前《なまぐさごぜん》であったなら、なんら問題になりはせんのだが、あの禅師が落ちたということで、修行というものも当てにはならぬものだ、聖道《しょうどう》は畢竟《ひっきょう》魔行に勝てない、あの禅師が、あの歳でさえあれだから、世に清僧というものほど当てにならぬはない――世間の信仰をすっかり落した責めは大きい、人一人に止まらず、僧全体の責任、仏教そのものの信仰にまで動揺を与える、その責めに禅師が自覚して身を引いたのだ。隠居して謹慎謝罪の意を表した、その噂は一時、その方面にパッとひろがって、よけいなお節介は、その娘はどうした、行きどころがなければ、おれがその将来を見てもいいなんぞと、垢《あか》つきの希望者もうようよ出たそうだが、本人|杳《よう》として行方知れず、そのうちふと、この院内に、それらしい女の隠れ姿を見たと言い触らした奴があったが、それもなんらつかまえどころのない蔭口――ところが、現在ただいま、この拙者というものが確実にその正体を掴《つか》んでしまった! 嗚呼《ああ》、これぞ由なきものを見てしまったわい! あんなのは見ない方がよかった! 春信《はるのぶ》の浮世絵から抜け出したその姿をよ、まさに時の不祥! 七里《しちり》けっぱい!」
 この男の一面は、意気だの情だのと言っては、溺れ易《やす》い感激性が多分に備えられていると見える。それが今晩、ことさらに昂奮と激情のみ打ちつづく晩だ。
 かくの如く、斎藤一が昂奮につぐに昂奮を以てするにかかわらず、机竜之助は冷洒《れいしゃ》につづく冷洒を以てして、いちいち、その言うところを受けている。
 つい近いところの知恩院の鐘が鳴りました。幾つの時を報じたのか、時の観念を喪失してしまっているこの二人にはわからないが、どのみち、もう夜明けに近かろう。夜が明けてはじめて寝に就くというようなことになりました。
 果してその翌日、机竜之助が目ざめたのは正午に近い時で、気がついて見ると、またしても斎藤一がいない。島原でも出し抜かれ、ここでもまた置去りを食ったことに苦笑いをしながら、竜之助は枕をもたげて、何をか思案しました。

         四十

 斎藤がいないことを知っただけで、竜之助はそのまま起き上ろうともせず、再び寝込んで眠りに取られてしまいました。それからまた眼が覚めた時は、もう暗くなっておりました。つまり、一日を寝通したのです。暗いから寝て、暗いところまで寝通したのですが、さてそれは、他人にとっては昼というものを全く超越してしまったことになるのですが、この人にとっては、人生に昼というものがないのですから、飛躍でも超越でもなんでもありません。
「ああ、また夜が来たな!」
 歎息とも、自覚ともつかない認識は、視覚以外の感覚ですることであって、時間というものを光によって区別せずして、勘によってするまでのことで、おおよそ何が夜の何時《なんどき》であり、昼の何の刻であり、あるいは昼と夜のさかい目、人間に於てたそがれという時、蝙蝠《こうもり》に於ては唯一の跳梁の時間――ということまで、枕を上げた瞬間にちゃあーんとわかる。
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朝寝して、昼寝するまで、宵寝して、時々起きて、居睡りをする
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という歌を思い出して、彼は苦笑を禁じ得ない。その辺で、はじめて冠を上げて、身を起すことになりました。
 身を起して見ると――見るというのは勿論、その特有の超感覚で見るのです、以前も以下もそれに準じていただきたい――例の唐銅《からかね》の獅噛《しがみ》の大火鉢には相当火が盛られていた。大鉄瓶《おおてつびん》がかかっているし、お茶の用意も一通り出来ている。それに、お弁当がちゃあーんと備えられていることを知りました。だが、誰もほかの人の気配はない。いつもならば、二人、三人、或いはそれ以上雑多な人数がここへ詰めて来て、がやがやとし、食事を取って、談じ込むもあれば、そうそうに出て行くもある。或いは昨夜、斎藤がしたように、人物論から時世論に及んで悲歌慷慨して声涙共に下るものもあるかと思えば、芸術談に花が咲くこともある。芸術談というのは、むろん武芸十八般に関することで、それには思わず竜之助も釣り込まれることもあるが、そうかと思うと、聞くに堪えない猥談《わいだん》に落ちて行くこともある。それは王侯貴人の品行のことだの、市井
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