から油断も隙《すき》もありゃしねえ、道庵|来《きた》ると見て、ハイ灰吹の格で、このサーヴィスぶり、いやはや全く、江州者には油断がならねえ」
と、早くも盃をとりながらこういう御託宣ですから、給仕に立った女まで呆《あき》れた面《かお》をしました。
幸いに、この給仕女が他国者であったからまず無事とはいうものの、その土地へ来ていきなり、「近江泥棒、伊勢乞食」と浴せかけるなんぞは、いくらなんでも毒が有り過ぎて、相手が気の短いものなら張り倒されるにきまっているが、これは多分、山城の場末あたりから来た新参の女中だったのでしょう、
「ホ、ホ、ホ、仰山《ぎょうさん》、御機嫌よろしうおますな」
「おますよ、おますよ、おましちまわあな」
たあいもなく道庵も、駈けつけ三杯を納めることができました。
三十一
道を枉《ま》げて胆吹山へ侵入した道庵が、どうして、いつのまに、ここまで来着したか、順路を彦根、八幡《はちまん》、安土《あづち》、草津と経て、相当の乗物によって乗りつけたか、或いはまた徒歩でテクテクとやって来たのか、そうでなければ、いったん長浜へ出て、あれから湖上を、ここまで舟で乗りつけたか――ただしは例の脱線ぶりあざやかに、湖水の北岸廻りをして、野洲《やす》から比良比叡の山ふもとを迂廻して来たか、その詮索はひとまずさしおいて、もし徒歩でテクって来たとすれば――道庵先生は老いたりといえども、あれでなかなか平地を歩かせては達者なものです。それは裏宿七兵衛や、がんりき[#「がんりき」に傍点]の百蔵といったような生れ損ないの足とは比較にならないけれども、背が高くて、コンパスが長いだけに、足には充分覚えがあるのですから――相当な突破をしていると見てもよろしいのですが、陸路を来たとしても、八幡、彦根、安土の順路を取らなかったことは確かです。何となれば、草津街道へかかりさえすれば、いやでも昨今のあの「晒《さら》し」を見ないわけにはゆかない。あの「晒し」が一目なりと道庵の眼に触れた以上は、さア事です。その沸騰は、まさにお角さん以上と思わなければならない。それが無事でここへ来ているというのが、あの晒しの現場を通らなかった証拠――と言えば言えるに違いないが、それにしても、もしまた駕籠《かご》か馬でもハリ込んで、揺られながら、いい気持の寝呆先生《ねぼけせんせい》気取りで、「乗せたから先は……」なんかんと納まり込んで、さしも街道名代の草津の晒し場を、ムニャムニャのうちに突破して、ここへ無事に到着の段取りと解釈のできないこともない。
いずれにしても道庵先生は、自分が唯一無二の股肱《ここう》と頼み切った米友が、今日明日のうちに首がコロリという、きわどい、危ない運命のほどを、一向に御存じないことだけは確かなものです。
さればこそ、この油断も隙もないもてなしを、遠慮会釈もなく引受けて、太平楽に納まり込み、
「江戸を一歩一歩と離れるのは、それだけ故郷に対して一歩一歩と淋《さび》しくもあるが、京へ一歩近づくほどに、酒《こいつ》がよくなるのは有難え。江戸は道庵が第一の故郷である、酒は第二の故郷である、第一の故郷を離れて、第二の故郷へと進んで行くんだ、有漏路《うろじ》より無漏路《むろじ》に帰る一休み、と一休坊主が言ったのは、ここの呼吸だろうテ」
途方もないでたらめを言いながら、たしかに吟味してある酒と、これは吟味しなくともおのずから備わる湖上の珍味とを味わいつつ、ひたすら興に乗ってしまい、いったい訪ねて来た相手のお角親方はどこへ行った、いつ帰るのだ、と駄目を押すことさえ忘れている。この酒と、この肴《さかな》さえあれば、尋ねる主などは、いてもいなくても差支えないという御輿《みこし》の据《す》えぶりでしたが、宿ではあらかじめ、かなりにその予備知識が吹き込んで置かれてありましたから、さのみ驚きません。
道庵先生は、いよいよ御機嫌斜めならず、しきりに管《くだ》を捲いたり、取りとまりもないことを口走ったりしておりましたが、相手の年増女中がいっこう気のないのを見て取って、
「お前、あっちへ行きな、おらあひとり者なんだから、この手酌でチビリチビリというやつに馴れてるんだ。そうして置いて、頃を見計らって、お代り、お代りと持って来て、そこへ置きっぱなしにして、そうして行っちまいな――いい、おらあ、ひとりで、チビリチビリと独酌というやつでねえと、酒が旨《うま》く飲めねえたち[#「たち」に傍点]なんだから――」
と、また一本の徳利を逆さに押立てて、したみまでも、しみったれに猪口《ちょく》の中へたらし込みながら顎《あご》でそう言いましたから、女中も心得て、
「それでは、失礼させていただきまんな、御自由に、たんとお上りあそばせ」
女中を追払ってしまった道庵は、いよいよいい気に
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