たしが選ばれた上は、できるだけお銀様のお父様の御機嫌もとり、なおできるならば、父と子との間の相剋《そうこく》の融和の足しにもなって上げたい。これは全く光栄のある役目に遣《つか》わされたものだ。それだけ責任というものも重きを加うる所以《ゆえん》で、お銀様のお父様のお気に入られないまでも、あんな卑しい女とさげすまれないように心がけなければならぬ。その点もあればこそ、お銀様もこうして、それとなくわたしの身だしなみにまで心をつくして下さったのだと、それで万事が呑込めました。
お雪ちゃんは、こんな心持になってみると、世間が明るくなった思いでしたが、日はいつしか暮れ方で、早くも長浜の町に入って、与一兵衛どのの案内知った手引で、浜屋の裏口に着いていました。
浜屋の表から案内を頼むには及ばない、万事は絵図面に描いてもらってある。鍵をあずかっているから、直接に裏口の木戸からと言われる通りに、その辺で下り立って、夕まぐれひとり浜屋の裏口の木戸に向って行きますと、石畳の二間ばかりの堀に、町としては美しい水が流れていて、そこに刎橋《はねばし》がある。
そこを渡って、木戸の錠前《じょうまえ》を外からあけにかかった時に、お雪ちゃんがまたなんとなく陰惨な気分に打たれました。
三十
湖畔にこういう突風が起りつつあることを知るや知らずや、道庵先生は抜からぬ面《かお》で、大津の旅宿|鍵屋《かぎや》の店前《みせさき》へ立現われました。
「わしゃ江戸の下谷の長者町の道庵というものだが、この宿に同じ江戸者で、お角さんという、下っ腹に毛のねえのがいるはずだ」
と、いきなり店先へ怒鳴り込んだものです。
江戸の下谷の長者町の道庵とみずからを名乗ることもよろしい、同じ江戸者で、お角さんという相手の名を呼ぶのもよろしいが、下っ腹に毛のないというのはよけいなことです。下っ腹に毛があろうとも、なかろうとも、この場合、そんなよけいなことを附け加える必要は断じてない。この点では、いきなり玄関払いを食うべき無作法だが、不思議と宿では、
「それ、おいでなすった」
この無作法千万なる来客を、待っていたとばかり、帳場も、男衆も駈出しという体《てい》で、下へも置かず、手をとって、早くも座へ招じ上げようとする。
「まあ、そうおせきなさるなよ、医者だからとて、旅へ出たら少しは楽をさせてもらいてえ。旅人《たびにん》だよ、この通り、旅路だから草鞋《わらじ》脚絆《きゃはん》という足ごしらえだあな、まずゆるゆるこれを取らしておくれ――それ、お洗足《すすぎ》の用意用意」
道庵は、上り口へどっか[#「どっか」に傍点]と腰を卸して、泰然自若たるものです。
「さあ、お脚絆、さあ、お草鞋――さあさあ、お洗足……」
全く下へも置かず、頭の慈姑《くわい》を摘《つま》み上げんばかりのもてなし。道庵としては全く初めてのふり[#「ふり」に傍点]のお客である。馴染《なじみ》でもなければ、定宿でもないのに、いくら下へ置かぬ商売だからといって、これはあまりに要領が好過ぎ、呑込みが好過ぎ、サーヴィスが有り過ぎる――と一応は、そうも受取れますけれども、これあながち、その根拠がないわけではないのです。
お角さんは、道庵の来るのを待兼ねていて、いつ何時、これこれこういう人が、尋ねて来るかも知れない。必ずよっぱらっておいでになり、口にはたいそう毒を持っているから、そのつもりで扱って上げてください。なアに、口に毒は持っているけれども、御商売は薬を扱う江戸でも名代のお医者さんだから、失礼のないように。もしわたしが不在でも、かまわず部屋へお通し申して、できるだけ丁寧に扱って上げておくれ。そうしてまた、御酒が大好きなんだから、吟味したところを、いくらでも御所望次第差上げておくれ。お肴《さかな》もこの琵琶湖の選抜《えりぬ》きのところを――なあに、いくら召上っても正気を失うような先生ではない、わたしが帰るまで、そうしてできるだけ丁寧に取持って置いておくれ――
こういうことが、お角さんからかねがね吹込んであるものですから、宿でも先刻心得たもので、
「それ、おいでなすった」
車輪になって、お角さんの申しつけて置いた通りに、サーヴィスをはじめたものです。
かくて、足も取り、洗足《すすぎ》も終ってみると、早速通されたところは、お角さん借切りの豪華な一室でありました。
御輿《みこし》を据えるとたん、早くもお銚子の催促であり、その催促を皆まで言わせない先に、続々とお好みの見つくろいが取揃えられる手廻しぶりに、道庵すっかり悦に入《い》ってしまって、
「どうも、これだから、上方《かみがた》の奴は油断がならねえ、ことにこの江州者ときては、昔っから近江泥棒、伊勢乞食といって、こすい[#「こすい」に傍点]ことにかけては泥棒以上だ
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