大菩薩峠
農奴の巻
中里介山
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)晒《さら》しの者《もの》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)企てたる段|不埒《ふらち》につき
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)憂心※[#「りっしんべん+中」、第3水準1−84−40]々
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一
近江の国、草津の宿の矢倉の辻の前に、一ツの「晒《さら》し者《もの》」がある。
そこに一個の弾丸黒子《だんがんこくし》が置かれている。往来の人は、その晒し者の奇怪なグロテスクを一目見ると共に、その直ぐ上に立てられた捨札を一読しないわけにはゆかぬ。その捨札には次の如く認《したた》められてあります。
[#ここから3字下げ、罫囲み、1行7字]
この者、農奴の分際を以て恣にてうさん[#「てうさん」に傍点]を企てたる段|不埒《ふらち》につき三日の間晒し置く者也。
[#ここで字下げ、罫囲み終わり]
この捨札を前にして、高手小手にいましめられて、晒されている当の主は、知る人は知る、宇治山田の米友でありました。
彼が、この数日前、長浜の夜を歩いた時に、思いもかけぬ捕手と、だんまりの一場を演じたことは、前冊(恐山の巻)の終りのところに見えている。その米友が、今は脆《もろ》くもこの運命に立至って、不憫《ふびん》や、この東海道の要衝の晒し者として見参せしめられている。
彼は今や、彼相当の観念と度胸とを以て、一語をも語らないで、我をなぶり見る人の面《かお》を見返しているから、その後の委細の事情はわからないながら、右の簡単な立札だけを以て、一応要領を得て往《ゆ》く人も、帰る人もある。ところが、この捨札の意味が簡にして要を得ているようで、実は漠として掴《つか》まえどころがないのです。
そもそも、「この者、農奴[#「農奴」に傍点]の分際」とある農奴[#「農奴」に傍点]の二字が、わかったようで、よくわからないのであります。事実、日本には農民[#「農民」に傍点]はあるが、農奴[#「農奴」に傍点]というものはない。内容に於て、史実なり現実なりをただしてみれば、それは有り過ぎるほどあるかも知れないが、族籍の上に農奴[#「農奴」に傍点]として計上されたものは、西洋にはいざ知らず、日本には無いはずであります。だが、往来の人は、別段この農奴[#「農奴」に傍点]の文字には咎《とが》め立てをしないで、
「ははあ、ちょうさん[#「ちょうさん」に傍点]者だな」
「なるほど、ちょうさん[#「ちょうさん」に傍点]でげすな」
「ちょうさん[#「ちょうさん」に傍点]おますさかい」
「ふ、ふ、ふ、ちょうさん[#「ちょうさん」に傍点]者めが……」
などと言い捨てて通るものが多い。それによって見ても、農奴の文字よりは、ちょうさん[#「ちょうさん」に傍点]の文字が四民の認識になじみ[#「なじみ」に傍点]が深いらしい。
ちょうさん[#「ちょうさん」に傍点]といえば、すでに、ははあ、と何人も即座に納得が行くようになっている。その一面には、農奴は農奴でそれでもよろしい、ちょうさん[#「ちょうさん」に傍点]に至っては、赦《ゆる》すべからざるもの、赦さるべからざるもの、ちょうさん[#「ちょうさん」に傍点]の罪なることは、まさにこの刑罰を受くるに価すべくして、免るべからざる適法の運命でもあるかの如く、先入的に通行人の頭を不承せしめて、是非なし、是非なしと、あきらめしむるに充分なる理由があるものと解せられているらしい。
然《しか》らばちょうさん[#「ちょうさん」に傍点]とは何ぞ。
二
ちょうさん[#「ちょうさん」に傍点]は即ち「逃散」であります。現代的に読めば「とうさん[#「とうさん」に傍点]」と読むことが普通である。「逃」をちょう[#「ちょう」に傍点]と読むことと、とう[#「とう」に傍点]」と読むことだけの相違なのです。これを訓読すれば、「逃げ散る」というのほかはない。
そこで、農奴なる分際のこの晒《さら》し者《もの》は、「逃散」の罪によって、ここにこの刑に処せられているという観念は明瞭になりましたが、それはただ、捨札に表われている文字だけの意味のことであって、これを本人の方より言えば、宇治山田の米友が、ここで、どうして「農奴」という身分証明の下《もと》に、更に「逃散」という罪名を以て、今日この憂目《うきめ》を見なければならない事態に立至ったのか、その観念に至っては、明瞭なるが如くして、未《いま》だ甚《はなは》だ明瞭を欠くのであります。
米友が、賤民階級に生れ出でたということは、本人自身も隠すことはしない。しかしながら農奴[#「農奴」
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