に傍点]という身分を自称したこともなければ、未だ嘗《かつ》て他称せられたこともありません。やはり米友とても、農業のことを働かせれば働きます。伊勢の拝田村では、宇治橋の河原へ稼《かせ》ぎに出る間は、自宅で相当の百姓仕事をやっていたのです。現に胆吹山の王国では、お銀様の支配の下に、ついこの間まで、極めて僅少の時間ではありましたけれども、鍬《くわ》をとって、あらく切りなどを試みていたくらいですから、やってやれないことはないのですけれども、特に農奴という戸籍に数えられていたわけではない。
それからまた、「逃散」の罪は、盗みの罪ではない。殺しの罪でもない。大抵の場合に於ては、逃げるとか、走るとかいうことは、本罪ではなくて、いわば副罪ということになっている。すなわち、殺しをし、盗みをしたことなどのために、現地に安住が為《な》し難くなって、それから他領他国へ――或いは天涯地角へ逃げ走る――ということが順序になっている。他領他国へ逃げ走らんがために、殺しをし、盗みをするということはないのです。はたまた、殺しでもなく、盗みでもなく、人の大切の妻女と合意の上で逃げるという事態に於てすらが、その目的は逃げることが本意ではなく、現住地では越ゆるに越えられぬ人為のいばらがあればこそ、彼等は手に手を取って逃げるのである。
もし罰するとすれば、やはり殺しに於ける、盗みに於けると同じように、私通であり、姦通であり、そのことに罰せらるべくして、逃散そのことに罪があるべきはずがないのです。
然《しか》るに、この場の晒し者は、これらのいずれもの罪科に適合せずして、ひとり「逃散」が罪になっている。「逃げ走る」こと、或いは逃げ走ったことだけが罪となっている。観念が甚《はなは》だ明瞭なるが如くして、不明瞭なるものではないか。
にも拘らず、通るほどの人は、いずれもそれに黙会を与えて過ぎ去る。
「ちょうさん[#「ちょうさん」に傍点]か――」
「ちょうさん[#「ちょうさん」に傍点]ではやむを得ない」
「ちょうさん[#「ちょうさん」に傍点]では、どないにもならんさかい」
畢竟《ひっきょう》ずるに農奴[#「農奴」に傍点]なるが故に「逃散」が罪になるということは、当時の常識に於て、ほぼ納得せられているらしい。
然らば、農奴なる者に限っては、殺しもせず、盗みもせず、私通も姦通も行わずして、いわば、なんらの罪というべきものがなくして、ただ単に「逃げ走る」ということだけが罪になるのか。
事実は、まさにその通りなのである。罪があってもなくても、逃げるということがいけない、逃げるということが罪になる。
三
胆吹《いぶき》の上平館《かみひらやかた》の新館の庭の木立で、二人の浪人者が、木蔭に立迷いながら、語音は極めて平常に会話を交わしている――
「ありゃ、身内のものなのです、土地っ子ではありません、ですからこの土地へ来て農奴[#「農奴」に傍点]呼ばわりをされる籍もなければ、ちょうさん[#「ちょうさん」に傍点]の罪を着せられる因縁が全くないのです」
と言っているのは、ほかならぬ元の不破《ふわ》の関の関守氏、今やお銀様の胆吹王国の総理です。それを相手に受けこたえて言う一人の浪人者、
「そうでしょう、数日前、拙者の寓居を訪れてから間もない出来事なのです、あの者がこの土地の者でないことは、拙者もよく存じておりました、然《しか》るにこの土地の農者として、あの男一人がちょうさん[#「ちょうさん」に傍点]の罪をきたという所以《ゆえん》に至っては……」
と言ったのは、過ぐる日、琵琶の湖畔で、釣を試みていた青嵐居士《せいらんこじ》その人であります。この二人の浪人者は至って穏かな問答ぶりでありましたけれども、その問題は、やはり農奴[#「農奴」に傍点]とちょうさん[#「ちょうさん」に傍点]との上にかかっている。すなわち草津の宿の晒《さら》し者《もの》のことに就いて、一問一答を試みているのであります。
「ちょっと想像がつきません、洗ってみれば直ちにわかる身の上を、ことさらに誣《し》いて、彼をこの土地の農民扱いにして、そうして、ちょうさん[#「ちょうさん」に傍点]の罪を着せて晒し者にしたということの処分が、どうも呑込めないのです」
と不破の関守氏が、青嵐居士への受け答えと共に新たなる疑問の主題を提供する。
「それは、ある程度まで想像すればできる、またそれを真正面から見ないで、反間苦肉として見れば、政策的に、時にとっての魂胆がわからない限りでもございませんがね……」
と青嵐居士、透《す》かさず相受ける。すなわち不破の関守氏は、宇治山田の米友が、突然ああしてちょうさん[#「ちょうさん」に傍点]の罪を着せられて晒されたことの由に相当面食って、その理由内状のほどがさっぱりわからないと言うと、
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