なって、独酌の天地に自由陶酔をはじめる。一杯、また一杯――京も大阪もみんなこの道庵を迎えるために存在している天地のように心得て、いよいよ太平楽をならべているうちに、酔眼をみはって、そろりそろりとこの部屋の中を見廻しました。
 相当に凝《こ》った作りのこの造作を見廻し、関東風の旅籠《はたご》との調度の比較などを試みているうちに、部屋の一隅に張りめぐらした六枚屏風《ろくまいびょうぶ》に屹《きっ》と酔眼を留めて、鋭く中を見込むようなこなし[#「こなし」に傍点]をやりました。鋭くといっても、朦朧《もうろう》たる酔眼に、強《し》いて力を入れての虚勢ですから、威力のないこと夥《おびただ》しい。しかし、何か感じたことがあると覚しく、幾度か眼に力を入れ直しては、この六枚屏風をためつすがめつ、
「怪しい、この屏風の中が怪しいと睨《にら》んだ」

         三十二

 道庵先生が酔眼をみはって、この屏風の中こそ怪しけれと不審をうったその屏風の中には、なんらの物音もしないのだけれども、そう言われてみれば、たしかに、物の気がその中にあるらしい。たとえ物音はしないにしてからが、物の気が中にあるのとないのとは、弁信法師ならずとも、勘によってわかる人にはよくわかる。
 たしかにこの中に物の気ありと見てとった――いや、勘で受取ったらしい道庵は、もう放すことではない。今まで、ひとり天下で、何を当てともなく、捲いていた管槍《くだやり》のやり場を、この屏風に向って集中し、
「たしかにその屏風の中が怪しい、七尺の屏風の中こそ怪しけれ」
といっても、立って、掴《つか》みかかって、引剥いで見るようなことはしない。
「七尺の屏風も、躍らばなどか越えざらん、綾《あや》の袂も、引かばなどか断えざらん」
 朗詠まがいの鼻唄になってしまいましたが、次には、そんな優雅なのではなく、
「コン畜生、やい、近江泥棒――」
と悪態を吐いてしまいました。
「その屏風の中にいるのは、近江泥棒だろう、油断も隙もならねえが、余人ならばいざ知らず、この道庵の眼をくらまそうなんぞとは、近江泥棒もすさまじいぞ」
 近江泥棒を連発するのは甚《はなは》だ聞き苦しい。単に聞き苦しいだけではない、悪態も品によりけりで、その国人を泥棒呼ばわりすることは、重大な名誉毀損《めいよきそん》であって、人によってはなぐられる。酔ってはいながらも、性根を失わない道庵は、さすがにそこに気がついたと見えて、急に、
「ハ、ハ、ハ」
と、いやに笑いくずして、
「と、いったものさ、近江の人に言わせると、近江泥棒、伊勢乞食というあれは、語呂の間違いで、本当は近江殿御に伊勢子正直というんだそうだ、その方が正しいのだそうだ。ところで近江の人間は商売が上手で、その道で成功する、伊勢の人間は貯蓄心に富んでいるから、金持になる、近江の人間が成功して大商人になり、伊勢の人が金を貯めて金持になる、それをケチな奴等が嫉《ねた》んで悪口を言ったのが、すなわち近江泥棒、伊勢乞食となったのだ、ひとの成功を羨《うらや》むケチな了見《りょうけん》の奴が、得てして真面目正直の成功人種をとらえては、そういうケチをつけたがる、取るにたらねえよ、怒んなさるな、ハ、ハ……」
と道庵が、自分で弁解をつけて、いいかげんに如才なく笑い崩したところは、やっぱり旅へ出ての引け目である。この先生の食えない一面である。
 そういう下らないことを口走りながらも道庵は、やっぱり屏風に着けた酔眼をしつこくして、
「といったものだが、屏風の中にいらっしゃるのは泥棒だか、聖人だかわかりはしねえ、この近江の国には、泥棒もいるか、いねえか、その事はよく知らねえが、聖人だけは確かにいる、その点は道庵が保証する、近江聖人といって立派な聖人がいる、こいつはゴマかしものじゃねえ、近江聖人は本場の唐《から》へ出しても立派な聖人で通る男だ、本格の聖人だ、近江なんぞへ置くのは惜しい男だよ、ああいうのには道庵も頭が下るねえ――ところで、その屏風の中にいらっしゃるのは、泥棒でげすか、そもそもまた聖人でげすかな、然《しか》らずんば君子――君子でげすかな。君子、君子、君子にも梁上《りょうじょう》の君子というやつがござる、大方その梁上の君子というやつでござろうな。盗人の昼寝といってな、白昼、人の家に忍んで昼寝をする奴は油断がならねえ、名乗んな、尋常に名乗んな、名乗って出ればお近づきに一杯飲ませて上げるが、いよいよ狸とあってみれば、退治るよ」
と言ったかと思うと、道庵がすっと立ち上って、屏風に向って歩み寄って来ました。
 しらばっくれてはいるけれども、道庵として合点《がてん》なり難き一応の不審を感じたればこそ、管まきにかこつけて、一応の検討をしてみようという気になったらしい。

         三十三

 道庵先生
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