の勘といっても、それはもちろん、弁信法師のような鋭いものではないけれども、さすがその道の名人(?)だけのものはあって、この物の気に、たしかになんらかの異常を感得したものではあるようです。
留守であるといえば、人のいないこの部屋に、たしかに何者かがいる。屏風の中に物の気がする。もし従者だとすれば、主人の不在をつけ込んで、主人の寝床にもぐり込むなんぞは図々しい。まさかお角が、旅にまでイカモノを啣《くわ》え込んで隠して置くはずはない。そこに道庵が不審を打ったのも、さすがに眼が高いものです。
案の如く、この屏風の中には、がんりき[#「がんりき」に傍点]の百蔵というやくざ野郎が、先刻から息を殺してひそんでいる。
臭いところから侵入して来て、お角を焚きつけて置いてから、自分はこの部屋へ納まり込んで、早速のことに戸棚から夜具蒲団を引っぱり出し、有合せの六曲を引きめぐらすと、いい心持で足腰を伸ばしてうつらうつらとしているところへ、不意に道庵先生の御見舞です。最初のうちは、お角が立戻ったのか知らと思ったが、そうではない。極めて口に毒のありそうな奴が、女中をからかいながら乗込んで来ました。こいつはいけねえと、急に狸をきめ込んでいたのが、何かの拍子で咳《せき》を一つした、それをついに道庵に感づかれてしまったという事態になってしまいましたのです。
飛び出して走る分にはなんでもない。逃げ走ることは商売同様だから、それはなんでもないが、出ればすっかり網が張ってある。いま飛び出してはあぶない。あれから、こうして、ここに隠れていれば、もはや金城鉄壁。そこでこいつとしては、久しぶりでのうのうと足腰を伸ばしていたところへ、またしてもこの邪魔者――蒲団の中で忌々《いまいま》しがったが、結局、狸をきめ通すよりほかはない、と観念しているうちに、珍しい、これはまた、江戸で見知りのある下谷の長者町の道庵先生だな、と気がつくと、この際、苦笑いが鼻の先までこみ上げて来ました。
とはいえ、いかに道庵先生なりとはいえ、今日のこの場は自分にとって、危急である、うっかりあの先生から、素姓《すじょう》を口走られては事こわしだ――こう考えたものだが、さて、道庵先生が、よせばいいのに、わざわざ御輿《みこし》を上げて、どうやらその屏風一重を引きめくりに来るらしいから、このままではいけないと、早くもその先手を打ったつもりで、がんりき[#「がんりき」に傍点]の百が急にうなり出しました。
さも苦しそうに蒲団の中でうなり出したものですから、その声を聞くと、道庵先生が急に我が意を得たりとばかり、
「そうら見ろ」
何が、そうら見ろだか、この言葉の分限がはっきりわからない。自分の勘が当ったという満足か、或いは、そうら見ろ、病人だ、医者と病人は附きものだ、唸《うな》るくらいならナゼ、もっと早く唸らない――というほどの意味であったか、その意味はよくわからないが、道庵は、荒っぽく引剥《ひんむ》きもしかねまじき勢いの屏風《びょうぶ》をそっと押して、のこのことこの中へ入って来ました。
がんりき[#「がんりき」に傍点]は、手拭を畳んで頭から額の方へ載せ、掻巻《かいまき》を頭までかぶらせてカモフラージを試み、そうしてさも苦しそうに、うんうんと唸りつづけている。
「何だい、お前さん、病人なら病人と最初から言ってよこすがいいじゃねえか、隠れ忍んでいると、梁上《りょうじょう》の君子と間違えられらあな。どこが悪い、苦しいか、どこが苦しい、さア、脈を見てあげる、手をお出し、腕をお出しよ、脈を見てあげるから、右の手を出してごらん――腕をお出しということさ」
道庵の押売り親切――脈を見てやろうと、余りある好意を、この病人が、遠慮か、謙遜か、腕を出そうともしない。押売る以上はどこまでも強く押売らなければならないと、道庵は相手が剛情なら、こっちもいよいよ剛情になるつむじ曲りを発揮して、
「出さねえか、拙者が脈を見てやるというに、遠慮をして、腕を出さねえ病人もねえもんじゃねえか。いよいよ出さねえとなると……」
道庵は意地になって、自分の手を夜具蒲団の中へつっ込んで、いやおういわさず、この病人の腕を引きずり出して脈を見てやろうとしたが、
「おやおや」
あるべきはずの手ごたえがなかったので、道庵が一方《ひとかた》ならずテレてしまいました。
三十四
多景島《たけじま》の庵《いおり》に行いすましていた弁信は、全く落着かない心で、安祥《あんじょう》の座から立ち上りました。
「落着きません、竹生島へ渡ろうとして、はからずもこの島へ寄せられたことも一つの御縁と存じまして、ここで多少の修行を致してみるつもりでございましたが、この心が落着きません、つなげる駒、伏せる鼠でございます、この通り、四面水を以て孤絶され
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