ておりながら、わが心を孤絶することができないというのが浅ましいことでございます。してみますると、この地も到底修禅のところではございません、ところの幽閑がかえって魔縁を引くと覚えました」
例によって、仔細らしく法然頭《ほうねんあたま》を振り立ててかく言いますと、庵の縁の柱のところに行って、柱の一方にからみついている縄を解いて、それをスルスルと下へ向って引きました。
そうすると、庵の一方に継ぎ足された一竿の竹の柱頭高く、へんぽんとして白旗が一つ現われて、きらきらと朝日にうつり出したのです。けだしこれは、かねて米友が、この法師をこの島へ送りつけて置いて立去る時に、おたがいの間に示し合わせておいた合図の一つで、その白旗を掲げた時は、すなわち弁信が米友に向って、何をか求むる希望の表示なのであります。次第によっては、金輪際《こんりんざい》といえどもこの座を動かないことになるかも知れないとまで思い立った弁信が、僅か三日にして、かく白旗を掲げてしまいました。
白旗を掲げてから、弁信は、なお縁の側を去らずに、仔細らしく小首を傾け通しておりましたが、暫くして、がっかりしたもののように頭を上げ、
「合図は致しましたけれども、反応がございません、米友さんとのあの時の約束では、米友さんがこの白旗を見かけさえすれば、軽舸《けいか》を飛ばして馳《は》せつけて来ていただくことになっておりましたのに……その反応がさらにございません。もし米友さんが胆吹へなり立帰って、この白旗の見える限りの間においでなさらない時の場合をも予想して、あの辺の湖岸で釣を楽しんでおいでになる浪人衆によくよくお頼みがしてあるはずになっているのでございますが、そのどちらからも反応がございません。どなたも、私の投げたこの合図に応じて下さるお人がないとしたら、私がいかに落着かない心でも、やっぱりこの島が与えられたる当座の常住かも知れません、私は、もう一応、このところで坐り直さなければなりますまい」
と言って弁信は、またも、もとの席に帰って正身《しょうしん》の座を構えてみましたけれど、そのいったん堰《せき》を切られたお喋《しゃべ》りが、やむということをしません。
「坐り直してみましたけれども、心の落着かないことは同じでございます、何か事が起りましたな、私をして、じっとこの座に安んずることを許さない外縁が、この周囲のうちのいずれかの場所で起りましたな。わかりました、この島は静かなりといえども、湖水の水が騒いでいるからであります――山は動かないが、水は動いているものですから、この心が落着きません」
と言って、せっかく組み直した正身の座をほぐして、弁信法師はまた以前の縁側の方へ出て、今度は有らん限りの四周の湖面を、ずっと見廻しました。見廻したといっても、この人は天性、肉眼の見えない人であることは申すまでもありません。四方の湖面に眼を注《そそ》いだと言いたいが、頭を注いで、そうして、今度は水に向って物を言いかけました、
「この通り、湖中の水が騒いでいるものですから、それで、私の心が落着かないのです。なぜ、こうも湖水の水が騒いでいるのかと考えますると……」
ここでまた、小首を傾けて、懸崖|遥《はる》か下の湖面へ耳をくっつけてみるような形をしましたが、その言うところは変っています。事実、水が騒ぐ騒ぐと弁信は口走っているが、見渡すところ、今日はこの青天白日で、ほとんど風らしい風は吹いていない。多景島の竹も枝を鳴らさず、湖面全体の水面は至って静かで波風が騒がない。平和なものです。その平和な海に向って、弁信はしきりに、水が騒ぐ騒ぐと言っている。平和な水こそいい面《つら》の皮で、事実、水が騒ぐのではない、彼の心が騒ぐのにきまっている。
三十五
こうして、この法師は、水が騒がないのに、われと我が心をさわがしている。そうして、わがさわぐ心を以て、その罪を水に向って被《かぶ》せている――それのみではない――
「湖水の水が、かくもあわただしく騒ぐのは……つまり、湖岸が穏かでないからです」
と、今度はその責めを岸へ向ってなすりつけにかかりました。
「湖水の沿岸が穏かでないから、それで湖水の水がかくまで騒がなければなりません、水が悪いのではなく、岸が悪いのです」
わが心の動揺を見事に、沿岸へ向ってなすりつけてしまいました。湖面が青天白日の平和な光景である限り、沿岸だけが黒風白雨の天気に支配されるというはずはない。然《しか》るにこの小法師は、かくも平和な湖面に向って騒擾《そうじょう》の罪を着せると共に、今度は、その罪を沿岸に向ってなすりつけてしまったが、波風の及ぶところはそこで止まるのではありません。
「先刻から、湖南湖北の巷《ちまた》の風説に聞きますと、この沿岸の村々がことのほか物騒がしいそう
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