でございます、一味ととうと申すのが、あちらにも、こちらにも、動揺の兆《きざし》を見せているそうでございます、私が通る辻々でも確かにそのことを感得いたしましたのは一再にとどまりません、沿岸の人心が劇《はげ》しく動揺を致しているその波動が、ここに、私の心をも動かしてやまないのでございます」
 彼はここで、立派に(?)わが心の動揺と、群集心理の動揺とを結びつけてしまいました。

         三十六

 弁信法師は、この小孤島のうちに寂静《じゃくじょう》を求めて寂静を得ず、人を待たぬはずの身が、人を待つ心に焦燥を感ぜしめられていると、その日中の半ば頃から雨を催してきました。
 しめやかに降る雨は、かえって激しい風雲を予想せしめないで、いっそう人の心を沈静にするはずのものであるが、湖面一帯に立てこめる雲霧のために、合図の白旗が、いよいよ合図の効力を没却するだけのことです。
 弁信法師は観念して夜に入りました。夜もすがら正坐を企てているうちに、雨は、漸くしとしとと多きを加えようとも、降りやむ気色《けしき》はありません。夜雨の軒をめぐる音を聞くと、弁信法師の心がまた、いとど潤《うるお》うてきました。いつの世か、夜雨禅師という人があって、ことのほか夜の雨をきくことを楽しんだということだが、全く、静かな心境で、夜の雨が軒をめぐって心耳《しんに》を潤す快味は得もいわれない。ところが、その夜更けの幾時かになると、庵《いおり》の表の戸を、
「トントン」
と叩く音がしました。この庵の表の戸といっても、戸らしい戸があるわけではありませんが、それでも以前、住みならした人の建てつけだけはしてあったのを、弁信法師はこの際、雨戸という名の責めを塞《ふさ》がせるために、使用しておりましたものです。
「どなたでございますか」
と、夜の雨を楽しんで、動揺の心を湿していた弁信法師が、我に帰って、夢心地で返事をしますと、
「弁信さん、おりますか」
と、あまり聞きなれぬ人の声です。
「はい、弁信はおりますが、あなた様はどなた様でいらっしゃいますか」
「ちょっと頼みがあって参りましたよ、あけてもようございますか」
「どうぞ、あけてお入り下さい」
 思いがけない来客は、立てつけの雨戸を外《はず》してみると、簑笠《みのがさ》をつけて、提灯《ちょうちん》をその簑の中へ包んでいたのが、静かにその光を庵の中へ向けて、
「ちと頼みたいことがありましてね、夜分突然にあがりましたよ」
 思いがけない人が、突然にやって来て、先方から頼みたいことがある、頼みたいことがあると言って繰返す――頼みたいことではない、頼まれたいことはむしろこちらにあるのです、と弁信に言わせない先に、その人は、
「三人連れでやって来ました」
「お三人でおいでになりましたか」
「ええ、三人でやって来ました、まあごめんなさいよ、いいですか、みんなこの中へ呼び入れますよ」
「どうぞ」
「どうも、不意に押しかけて相済みません……」
 つづいて、外に待っていたらしい一人の簑笠が、決して広くもあらぬこの庵の中へと、乱入ではない、侵入でもない、極めて静かに、全く世を忍ぶ者ででもあるように、簑笠のままで入ってきまして、土間に突立ちました。提灯は一つ、最初の簑の間に隠されているだけですから、後ろを照らすことは少なく、前を照らすことのみに向いているが、本来は弁信法師のいるところに限っては、夜昼ともに光というものが用を為《な》さない。だが、この場面の全体をただ一本の蝋燭《ろうそく》に任せては、照明の任が重過ぎる。その時、ようやく弁信法師が、最初当然こちらから為すべき質問を、不意の来客に向って切り出しました、
「あなた方は、わたくしが掲げました合図の旗をごらんになって、それによって、おいで下すったのではございませんか」
 これは当然の質問です。当然の質問というよりも、先方から、のっけに切り出さねばならぬところの挨拶であるべきであったのです。つまり、「弁信さん、遅くなって済みません、つい、あなたの合図の旗を認めるのが遅かったものですから――いや、認めるには認めましたけれども、これこれしかじかの事情にさまたげられて後《おく》れました、ずいぶん心配したでしょう、もう安心なさいよ」とでも言ってくれるのが本筋であるべきのに、そのことは言わずして、いちずに自分の方の勝手でやって来たようなことを言うものですから、弁信から逆にダメを押されたのです。そうすると、その返事が、
「いや、一向そういうことには気がつきませんでした――」

         三十七

「はて」
 ところで、弁信が、はじめて法然頭《ほうねんあたま》をひねり立てました。
 今まで彼は、夜雨をきくことによって、本来の鋭敏なアンテナを張ることを忘れておりました。忘我の瞬間には、勘だの、想像
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