へ対する義理と犠牲心から、病める弟の忠言を聞いて、留まる姉への奉仕とならざるを得ないことになりました。
 梶川少年は、仲間小者《ちゅうげんこもの》となる覚悟を以て、銀杏加藤の奥方を助け、病友が要求する三カ月の期限以内に必ず目的を達して、九州へ下って相見《あいまみ》えるということを誓約的に断言したのです。奥方も、ついにこの説を容れざるを得なくなって、そこで、この一座の評議は、友義と、同情と、犠牲心とを以て美《うるわ》しくまとまりました。
 奥方が、立って、荷駄の差図に別室へ赴《おもむ》いたあとで、伊都丸は、梶川を枕もと近く招いて、ひそかに言うよう――
「梶川殿、姉はああいう気象ですから、如何《いかん》とも致し難いです、姉は尾張の名古屋の城は、徳川の名古屋城ではない、加藤の名古屋城だと信じているのです、そうして、加藤清正の唯一真正の血統は、我々姉弟のほかにはない、名古屋にも、加藤と名乗って清正の直系と称する家は幾つもあるけれど、みな傍系に過ぎない、先祖の加藤清正が、悲壮なる覚悟を以て心血を注いだあの城、あの城には先祖の魂が籠っている、いつか時勢がめぐりめぐり来《きた》って、加藤の子孫がこの城の主となる時がなければならない、と常始終、こんなに考えているのです。そうして、事毎に拙者を努め励ましてはいるのですが、拙者は姉と異って、左様なことには極めて淡泊なのです。よし我々が加藤の正系であろうと、傍系であろうと、それは私にとっては何の加うるところも、減ずるところもないのです。清正といえども、摂家《せっけ》清家《せいけ》の生れというわけではない、本来を言えば、豊臣秀吉と共に、尾張のあの地点の名もなき土民の家柄なのです。秀吉の威力が増大するにつれて、清正も天下の大大名とはなりましたけれども、本来、秀吉も、清正も、自負すべきところはその門地や家柄ではなく、その天性の実力にあったのです。拙者の如きはその点を偉なりとしますけれども、姉は清正以来の家系というものに重きを置いているのです。それに姉はこの尾張の国で生れたのですけれども、拙者は肥後の熊本で生れました、その土地の引力かも知れませんが、姉は金鯱《きんしゃち》の見える土地に執着を持っている、拙者は阿蘇の煙の見えない土地は、生きる土地でないような気持がしています、熊本へ帰ると、そこに先祖の菩提所《ぼだいしょ》があります、我々が一生不足なく暮らせるだけの知行もあります、また、幼な馴染《なじみ》も、我々を尊敬してくれる郷土民もあるのです。郷土の人は、どこからともなく、我々の家柄が加藤清正の家系である、今の細川家よりも古いのである、というような観念を持っていて、それで特に我々を尊敬してくれるのです。もし系図というものに余徳がありとすれば、名古屋城の金の鯱《しゃちほこ》の光よりも、この郷土民が何百年の昔の歴史に信仰を置いて、何の功業もない我々を尊敬してくれる、これこそ、系図の余沢《よたく》、先祖の光である、拙者はそこに先祖の有難味を味わって生きて行きたい。そういうふうに熊本では人心が皆、拙者になついてくれる、特に風土が、拙者の身体にかなっているようです。有名な阿蘇があります、その周囲には幾つもの温泉が、我々を温めてくれます、それから八景《はけ》の水谷《みや》だの、水前寺だのいうところの水がよろしいです。いったい、どこを掘ってもよい水です、一歩、海辺へ出ると、柑橘《かんきつ》の実る平和な村があります、三角《みすみ》の港から有明の海、温泉《うんぜん》ヶ岳《たけ》をながめた風景は、到底、関東にも、関西にもありません。それに加うるに穀物が実ります、米も、肥後米といって第一等の米がとれるのです。なおその上に、国主の細川家と、先住者の加藤家との間の諒解が極めて美しい。ところによっては先住の豪族を平げて、後の国主が入城し、両者の間は仇敵のような例も随分ありますけれども、肥後の熊本に限っては、今の細川家が、先の加藤家の崇信者であり、同情者でありますから、加藤の名によって肩身が広くなるのです。そういうところですから、拙者は姉と違って、熊本を故郷なりとします、今、名古屋城をお前に与えるからと言っても、それを受けて住む気にはなれないのです。梶川氏、貴君もぜひ、熊本へ来てごらんなさい、必ず熊本が好きになるにきまっている。しかし、拙者は拙者として、斯様《かよう》な愛着に生きているけれども、姉のああした気象と意気を軽んずる気にはなれない、あの見識で生きている姉を尊敬しなければならないのです、よって、正面から姉の精神を斥《しりぞ》けるわけにはいかないのです。男子は裸一貫と、意気とで生きなければならない、系図に物を言わせるようになってはおしまいだと言いたいのですが、姉のあの気持を尊重するとそれが言い出せない、ですから、貴殿は姉を見ついで
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