、決して危険を冒《おか》してまで系図などに執着する必要はないから、程よくして、三カ月目には必ず熊本へ来て下さい。熊本へ来れば、貴殿に安住の地が必ずある、しかし貴殿は以前から、長崎へ行きたい、支那へ渡りたいというようなことを言っておられたが、かりにその希望のためとしても、遥《はる》かに都合がよくなって行くのです、わが家の系図などに執着せずに、貴君の身を安全にすることを第一に考えて下さい」
 伊都丸少年は、こう言って、繰返して友なる梶川少年に口説《くど》きました。梶川はそれを最もよく諒解しました。
「貴君の心持はよくわかっています、吉左右《きっそう》ともに、これから三カ月後には姉君を伴うて必ず熊本へ参りますから、貴君も心を安んじ、御自愛第一にして待っていて下さい」

         九十四

 かくて梶川少年は、ひとり大垣の宿《しゅく》を先発して、清洲の山吹御殿に帰りついてのその日の宵のことです。
 誰も知らない間に裏手から、その広大な屋敷のいずれにか無事に潜入してしまいました。
 その夜更けて、同じ裏手の門が内から開かれると、いつのまにか門側に忍んでいた一人の女性が、身を現わしたと思うと、早くもその裏門から身を没して、広い邸内のいずれにか吸い込まれたことは梶川少年と同じことです。ほどなく、邸内の山吹御殿の、桔梗散《ききょうち》らしの豪壮な一間に、形はいかめしい銀の燭台に光はしめやかな一種の燭がかがやくと、そのところに銀杏加藤の奥方が端然と坐っています。やや間を置いて、かしこまっているのは梶川少年。
 二人は、無事に、この旧邸へ立戻って来たのです。
「梶川様、ほんとうに、ここまで来て安心いたしました、万事は皆あなたのおかげです、何と感謝していいかわかりませぬ。本来、わたしが、こんな強情を言って、立戻ることを主張しましたのは、確かにそれと充分の心当りがあればこそなのです。名古屋城には加藤の四家というのがございまして、それがいずれも清正の正統と称しているのです、その加藤四家のうちの、いずれの加藤とは申しませんが、そのうちのある一家が、特別に、わたくしの家の系図に目をかけておりました、そうして、表面には出さないけれども、手をかえ、品をかえて、いろいろの好条件の下《もと》に系図譲受けを策動して参りました、それのみではない、わたくしの一身までも……そういう執心の家が現在あったということを知って下されば、これからの探索にも有利であろうと思います、そこに心当りがあればこそ、わたしは存外簡単に目的が達せられるのではないかと、こう思いましたものですから、強《し》いて弟を振捨てて帰って参りました」
 奥方からこう言われると、前にかしこまっていた梶川少年は、充分それを納得して、附け加えて申します、
「拙者も実は、奥方のお心持を左様に忖度《そんたく》しておりました、それのみならず、関ヶ原まであの夜の曲者を追いかけた時に、あれがどうしたものか、途中で何者かのために辻斬られている、その死骸にぶっつかって、篤《とく》と見定めて置いたのです。彼が暫くの間でも、御当家へ下郎として仕えていたということ、金子《きんす》も取るには取ったが、それは無事に戻ったにかかわらず、下郎の分際として、何の役にも立つまじき系図に目をかけたことと、その系図だけが紛失していること、それらから考え合わせて、これは背景があるのだと直感しましたから、その時、下郎から相当の証拠を集めて置きました。これから清洲へ帰って、あの下郎の身元を洗ってみれば、それからだいたいの当りがつくように信ぜられましたから、奥方様に先立って、ひとりこちらへ引返すことを主張しましたのです。それには幸いに伊都丸君が一行を引具して、相変らず旅路を続けられるということがかえって好都合でした。あなた様と拙者とが、立戻って来ているということが知れては、先方が警戒しますけれども、今宵のことは誰も知りません、今後も、あなた様は決してお座敷を離れてはいけません、万事の奉仕は拙者一人が致します、出入りの者にも感づかれてはなりません。拙者は大丈夫です、こうして昔と変った仲間小者のいでたちで、留守居を頼まれたようにしていれば、誰も怪しむものはありません、ことにここは一城廓とも言っていい別天地ですもの――そうして、名古屋城下に程遠くもない地の利を占めていますもの、ここを根拠として、これから名古屋城下を隈《くま》なく、私がたずねます。万一、見知る者があってはと存じ、面《かお》を少々|灼《や》くことに致しました」
 梶川少年から、頼もしい限りの言葉を聞かされた銀杏加藤《ぎんなんかとう》の奥方は、その最後の一句に至って、美しい面を曇らせて、
「それはいけませぬ、面を灼くとおっしゃいましたね、梶川様、どういうことをなさるのか知れないが、それだけは思い
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