それを拙者は引き止めることはできない、そうかといって、拙者は姉上といっしょに、では拙者も心を同じうして、祖先の系図をたずねんがために、再び尾張へ帰りましょうと言えないことが悲しい」
 病床から弟にこう言いかけられて、奥方は静かにそれを顧み、
「お前が、わたしの心持がわかってくれるように、わたしもお前の心持がよくわかります、わたしは肥後の熊本が故郷ではないけれども、お前には熊本が故郷なのです、そうして、お前の一生を安楽に托する風土というものは、熊本のほかにないことをわたしもよく知っているから、お前は、決して心を動かすには及びませぬ、翻せといっても、翻せない心持はよくわかります、それに、お前の親友、梶川様が附いて行ってくれるから、わたしは何よりも安心しています、それに、一旦ああして立った清洲の土地へ、事をかこつけに再び舞い戻るようでは、人に笑われます、お前はどこまでも、熊本へお帰りなさい、わたしは、引返して尾張の国へ留まります、では、梶川様、弟の身の上を幾重《いくえ》にもお頼み申します」
 奥方から、再び頼みの言葉で言われて、梶川に挨拶を返す隙《すき》を与えず、病床の弟がまた言いました、
「それはいけませぬ、姉上、拙者には多年、使い馴れた附人もござります、これから海陸の順路を、心任せに九州へ下る分には何の不安もない身です、それだのに、これから一人でお引返しなさろうという姉上は、非常の御決心で前途のことも思いやられます、それには何よりも心強いのは、梶川氏、あなたに、どうか、この拙者に代って、姉上を助けて上げていただきたい、万事の相談相手になって上げていただきたい、そうして、心を合わせて家宝の系図を取戻した上に、姉上を守護して九州へ下って、おたがいに阿蘇の山下で、喜んでお目にかかる日を期待いたしたい。梶川殿、拙者のことは、順路を順当に行く尋常平凡の旅でござるから、少しも心配にはなりませぬ、さいぜんも、貴殿はひとり留まって、我が家のために系図を探して下さるとまでおっしゃった、貴殿の勇気と真情は、我々にとって二つとない、どうか、こちらに留まって、姉を助けて、姉の志を成さしめていただきたい」
 いたいたしい声に力を込めて、こう言い出された時に、奥方の眼から涙が溢《あふ》れて頬に伝わって落ちました。
 梶川与之助は、またも返答に窮するの立場に輪をかけられたようなもので、面はかがやき、口はわななくけれども、いずれへ何と挨拶し、いずれへ何と諫言《かんげん》していいか、その言葉の緒《いとぐち》を見出し難い。
 その時、病床の伊都丸少年は、また声を落して言いました、
「姉上とても、一旦こうまでして清洲を立退いておいでになったものを、今更おめおめとお帰りづらいものがお有りでしょう、たとえ事情がこの通りとは申せ、出入りの者のおもわくさえも不快なものがござりましょう、それを御承知の上で、お戻りなさる非常の覚悟、梶川氏、それを察していただきたい、それ故に、貴殿は、このままひそかに先発して清洲へお帰りを願いたい、そうして留守宅の万事を程よくこしらえて置いて、それから、夜陰こっそりと姉上を迎えていただきたい、そうして、世間|体《てい》はどこまでも熊本へ立ったことにして置いて、邸内も広いことでござる故に、姉上は一間に籠《こも》って人に面を知られないように、貴殿は、さのみ注意する人もあるまいから、どこまでも留守をあずかる人のようにこしらえて、陰《かげ》になり、陽《ひなた》になって、姉を助けて志を成さしめていただきたい、それを御承知ならば、このまま直ぐに貴殿は清洲へ向けてお引返しが願いたいのです」
 梶川少年は、その言葉を聞きながら、紅顔が熱し、これも同じく涙が頬を伝って流れます。
 奥方は、いずれをいずれとも言わない。梶川としては、姉の言葉に従って、病める弟を見ついで九州へ下るべきか、非常の覚悟と冒険を予期して、ひとり留まらんという姉のために、弟の忠言に従うべきか、いずれが是、いずれが非かわからないうちに、なにものかの強い道義心に打たれて感動する。しばらく、判断も利害も離れて、ただ感動に堪えられないでいるうちに、最も冷静なのは病める弟でありました。姉と、友なる人の、言わんとして言い難き時に、この弟は冷静に、流暢に、従って極めて理路整然としてまた言いました、
「そうして、三カ月を限っていただきたいのです、姉を助けて向う三カ月のうちに、姉の目的が達せられません時には、もはや、天、加藤家を捨てたりと思召《おぼしめ》して、姉を守護して熊本まで下っていただきたい、そうしてかの地でわれわれは笑って再会して、おたがいに今後の生きる道を楽しく語り合いたいものです、この申し出には姉上も御異議はござりますまい」

         九十三

 やがての事の結論は、ついに梶川少年が、両者
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