友らの一行と、すれつもたれつして尾張から美濃路へかかったことは、それらの巻にくわしく出ているはずです。
 しかるに――僅かに美濃の大垣まで来た一夜、悪漢があって、この一行の宿所を荒した。奪われたのは旅費としての相当の大金のほかに、金銭にも利福にも換え難い銀杏加藤の系図の一巻であったことを既に記しました。
 その曲者の痕跡をたずねて関ヶ原まで追いかけた梶川与之助は、そこで、悪漢その者の横死を見とどけ、奪い去った金子《きんす》は再び戻ったが、系図一巻が戻らない。この系図一巻が銀杏加藤の奥方にとっては、身にも宝にも換え難い執着であることの所以《ゆえん》は――世に加藤は多いけれども、自分の家こそは肥後守清正の正系、清正の血統を引く家として、わが家より正しいのはない。この自負の執着が、奥方を懊悩せしめている。再び大垣の宿へ立戻って、このたびの急難を、一にわが身の怠慢と無責任とに帰《き》して、憂えもし、憤りもし、慰めもし、詫《わ》びもしているのは、岡崎藩の美少年梶川与之助でありました。
 大垣の宿の一室に、銀杏加藤の奥方は、その美しい面《かお》に遣《や》る瀬《せ》ない憂愁を見せて、悄然《しょうぜん》として坐っている。その傍らには、床をのべて、弟の伊都丸が枕に親しんでいる。夫人に相対して、小者姿にやつした美少年の梶川が、きちんとかしこまって、ひたすらに慚愧と陳謝の意を表して重ねて言う、
「万事みな、この拙者が抜かりでござりました、いくたび繰返しても詮《せん》なきこと、この上は拙者は、九州へおともをすることは断念し、これより再び名古屋の城下へ立帰って、いかなる苦心をしてなりとも、御系図の一巻を探し出して、お返し申し上げる所存でござります、奥方様ならびに伊都丸殿、では、このまま御免を蒙《こうむ》りまする、あなた方は、お心置きなく、熊本へ向けてお立ち下さいませ、拙者が一心を以て必ず、系図のありかをたずね得て、お知らせを致しまする、いや、お知らせだけではない、誓って、それを携えて熊本まで出向きまする、どうか、拙者の精神を御信用あって、御安心して旅路におつき下さい」
 梶川与之助は、決心を面にあらわして切に言いました。
 それには相当の自信もなければならぬ。その熱烈な決心のほどを面にあらわして、梶川がかく言った時に、憂愁に満ちていた奥方の面が急にかがやいたように、自分の膝も進むばかりはずんで見えました。
「梶川様、よくおっしゃって下さいました、わたくしも未練のようでございますが、こればかりは思いきれませぬ、あの系図を奪われて何の銀杏加藤でござりましょう、あれを持たないで肥後の熊本へ帰って、どうして御先祖清正公の霊に申しわけが立ちましょう、梶川様、あなたよりも、わたくしがさきにその決心をきめてしまいました、僅かに尾張の国を一足出たばかりで、あれが盗まれるというのは、決してあなたの抜かりではござりませぬ、わたくしたちの不用心でもござりませぬ、あの系図に魂があって、肥後の熊本へ行きたがらないのです、やはり、尾張の国に留まっていたいからなのです。いつも申します通り、肥後の熊本は、加藤清正の国ではないのです、加藤清正の産湯《うぶゆ》を流したところは、この尾張の国の中村なのです、肥後の熊本の城も、清正の築城には相違ありませんけれども、それよりも一層この尾張の名古屋の城に清正の精神が籠《こも》っているのです、それですから、わたくしは、どうしても、あの名古屋城の鯱《しゃちほこ》の見えないところへは行きたくないと、日頃から申しておりました、系図も尾張の国にとどまりたい、わたくしたちも尾張を去るなという、清正公のお示しではないかと思い当りました。けれども、肥後の熊本で静かに病を養いたいというこの子の希望もさまたげる気はありません、お前はお前で、心任せに熊本へおいでなさい、そうして、梶川様、あなたもどうか弟を見まもって九州へおいで下さい、わたくし一人が残ります、わたくしは清洲の侘住居へ一人で帰ります。系図の行方にも、心当りが充分にあるのです、必ずわたくしの真心が通じさえすれば、再びあの系図が、わたしの手許へ帰ってくると、確かにそう信じられてなりません――わたしでなければ駄目です、わたしは尾張へ戻りますから、梶川様、あなたは友人として、病身のわたしの弟をいたわって、熊本へお越し下さいませ」
 銀杏加藤の奥方は美しい面に強い決心の色を見せて、きっぱりとこう言いました。

         九十二

 感謝と昂奮に緊張した梶川与之助は、奥方の強い言葉に頓《とみ》に言葉を返すことができないでいると、傍に寝《やす》んでいた伊都丸が、夜具の中から言葉をかけて、
「姉上――そうおっしゃる、あなたのお心持がよくわかります、日頃のあなたの御精神がそれなのです、姉上が留まるとおっしゃるなら、
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