せず天井を見つめていたが、またも、霧を吹くような吐息をついて、
「なあに、死ぬよ、死ぬよ、その時になれば、おれは誰よりも先に、江戸の城を枕に死んでみせるよ、腕のつづく限り、この槍一本が砕けるまで突きまくって、死ぬよ、死ぬよ、ちぇッ、薩摩、長州の又者《またもの》の下について、この神尾が生きていられるか!」
八十七
神尾主膳をして、極めて順当に、「おれは徳川のために死ぬよ」の言葉を発せしめたのは珍しいことです。この珍しい素直さを取戻してみると、それからのこの男の頭が驚くばかり明晰《めいせき》なものとなりました。考えてみると、それもそうだな、徳川をそんなに弱いものにしたのは、旗本が意気地がないんだ、おれが悪かったんだ、おれたちが衰えたから、それで天下がグラついて来たのだ、いまさら誰を恨まんようはない!
神尾は、いよいよ珍しくも、外へ向って発する鬱憤を、内に向って省《かえり》みる心持にさせられている。こういうことは全く異例であるけれども、これも一つは酒というものが、傍らにいて焚きつけることをしない一つの作用であると見れば見られる。昨夜あの通り転げ込んで、座右に酒がありさえすれば、むやみやたらにあおりつけて、その結果はどうなったか自分でもわからない。今朝、眼がさめて人か酒があったならば、それを引寄せて、またどういう狼藉《ろうぜき》がこの場に行われたか、それも予想の限りではなかった。人がいたにしても、酒の種が切れていた。今朝も同様……酒が傍らにないために、外に発する狂乱を、内に顧みる内省にしてくれたことは是か非か。
こうなると、神尾の頭はいよいよ重い。もう酒を呼び疲れている。さりとて、飯を食う気にもなれない。起き上る気にさえもならない。蒲団《ふとん》の腐るまで、こうして仰向けに寝ていることが本望だ。
神尾の三つの眼が天井に向って、或いは燃え、或いはうつろのように冷え切って見つめている。日は高くのぼったが、どうやら曇り日になったらしい。門がとざしてあるから、今日は子供らも近づかない。主膳はやがて少しくまどろんだ。まどろんだ時間がどれほどであったかは知らないが、中ごろで不意に呼びさまされた。
「殿様……殿様」
二声つづいて呼ぶ声を、うたたねの小耳にはさんだから神尾主膳が、
「誰だ」
「鐚《びた》でございます」
「鐚か」
「鐚でございます」
「鐚、貴様も生きていたか」
「殿様も御無事でいらっしゃいましたか」
「そこをあけて面《つら》を見せろ」
「はい、殿様――この通りの面でございます」
隔ての襖《ふすま》を八寸ばかり開いて、面を見せたその面は、ガスマスクをかぶったように繃帯で巻かれていましたから、神尾も少し驚いて、
「どうした、鐚、その面は……」
「これと申すも、誰を恨みましょう、みんな殿様の為させ給う業でございます、今日は恨みに上りました」
「ふーん」
と神尾は、ガスマスクのように繃帯した鐚の面を見直したが、今日は滑稽な感じがしない。
「恨めしいやら、口惜《くや》しいやら、今日お目通りをした以上は、思い切って損害賠償を申し立てましょうと、歯がみをいたしながら推参いたしましたが、本来が忠義骨髄の鐚、すやすやとお寝《やす》みの殿のお寝息をうかがいますると、やれ御無事でいらせられたかと、昨日来の恨みは脆《もろ》くも消えて、先以《まずもっ》て嬉し涙に掻《か》きくれたような次第でございます」
「とにかく気の毒だったな、おたがいに昨日はあぶなかったよ」
「そのお言葉で、鐚はもう成仏でございます、本来、忠義骨髄の鐚の儀でございますから、殿のお為めならば、この面なんぞは三角になりましょうとも、いびつになりましょうとも――そんなことを気にかける鐚ではございませんが、それにしても、あれはかわいそうでございましたよ、水戸在のあのお百姓は、かわいそうでござんした」
「うむ」
「あれは、たしかに殿様の方が御無理でござんしたな、百姓なるが故に憎い、憎いが故に斬らざるべからず、これでは立つ瀬がござんせん……」
「言うな、言うな、そんなことはもう言って聞かせてくれるな、それよりは、貴様にそれだけの怪我をさせたのが不憫《ふびん》だ、そのうち埋合せをするから辛抱しろ、それはそうと鐚、今日はゆっくり話して行け、あの向うの戸棚にお絹のやつの夜具蒲団があるから、あれを引出して、そこへ敷いて休め、寝物語とやらかそう」
神尾主膳は、寝ながら、こちらを向いて腮《あご》で隣室の方へ指図をしました。
八十八
「では、まあ、お言葉に甘えて、遠慮なく……殿の枕席にいや、どうも、お新造のおぬくもりのお夜具蒲団を拝借に及びまして、鐚、恐縮……」
鐚は神尾の指図に甘えて、言われた通り隣室の戸棚から、お絹が専用の夜具蒲団を取り出して敷きのべながら
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