、蒲団へ鼻を押当てて臭いを嗅ぐような仕こなしまでしながら、
「では、御免を蒙《こうむ》ることにいたしまして、お新造お垢《あか》つきのお夜具……枕席……」
 減らず口を並べ、ぬくぬくともぐり込んで、頭ばかりを夜具の上に出して、主膳の方に向って、繃帯だらけの面に眼をぱちくりさせていると、神尾主膳は仰向けに寝て正面を切りながら、
「鐚、おれは今日まで、市井一般の暗い方の世の中は、ずいぶん見飽きるほど見ている身だが、眼をあげて、天下の大勢という勢いを見る暇がなかったんだ、どうだ鐚、今、天下の大勢はどうなっている」
「これは驚きました、鐚に向って、天下の大勢をお問合せになる――これは驚きました」
「驚くがものはないよ、貴様だって江戸ッ児の端くれだろう」
「江戸ッ児、江戸ッ子、まことにその通り、こう見えたって、鐚は江戸ッ子のキチャキチャなんでげす、端くれはお情けねえ」
「チャキでもキチャでもそれはかまわんが、貴様といえども、いやしくも江戸に生れ、三百年来、直接に徳川のおかげを蒙って今日にありついている一人だろう」
「いや、いよいよ事重大になりにけり、左様に、四角張って戸籍調べを遊ばすまでもなく、鐚といえども三百年来の江戸の土虫、まさにその通りでないと誰が申しました」
「よし、まさにその通りとしたら、もしここに、仮りに徳川の天下が亡びて、この江戸中が灰になってしまったら、どうする」
「いや、こいつはまた、事重大を過ぎて、まさに破滅の時代とはなりにけり、公方様《くぼうさま》の天下が亡びて、江戸中が灰になる……鐚なんぞは、左様なことを考えたこともございません、考えることもできませんな、でございますから、こればっかりは御返事の限りではございません――七里けっぱい」
「仮りにだな――薩摩とか、長州とかいう田舎侍《いなかざむらい》がやって来て、この徳川の天下を覆《くつがえ》し、江戸中へ火をつけて焼く、そういう暁になったら、貴様も江戸ッ子の一人として、どういう進退をするか、それをためしにひとつ聞いて置きたい」
「鐚なんぞをつかまえて、そういう試験地獄におかけあそばすのは罪でございますよ」
「罪と罪でないとに拘らず、現在、目の前にそういう時勢が現われて来たとしたら、何と身の振り方をつけるか、それを聞かしてもらいてえ」
「お許し、そういう重大な問題は、全く以て鐚の頭では荷《にな》いきれません」
「返答ができないのか」
「どうか、御免を蒙ります、もっとやさしい、鐚は鐚相当のところで、一年生でひとつ試験問題の御下問が願えてえもんで……」
「試験ではない、実際問題なんだ、自分の目の前に即刻現われた問題として返事をしてみろということなんだ、むずかしくとる必要はない、たとえば、安政の大地震の時のようにだ、今度は地震ではなく、外敵が不意に押しかけて来たとしたら、貴様は、どう身の振り方をつけるか、それを端的に返事をしてみろというだけのものだ」
「地震でげすか、地震ときちゃあ、鐚は最も虫が好かねえんでげすが、さりとて、それござんなれと、鎧兜で鯰退治《なまずたいじ》に出動という勇気はござんせん、まず、何を置いても、三十六計逃げるに越したことはございません、逃げるには、竹藪《たけやぶ》の方へ逃げた方がよろしいと教えられておりますんでございますが……」
「そうか、地震なら逃げ出す、そうして、もしそれが敵だったらどうだ、この江戸を仇となすやつが他国から押寄せて来た日には……いやいや、やっぱり逆戻りだ、考えてみると鐚、貴様には荷が勝ち過ぎた試験だ」

         八十九

「落第でげすか」
「落第というものは、ともかく試験をうけて上のことだが、貴様のは落第にも至らない……まず低能だ」
「ナ、ナンとおっしゃりました」
「低能だよ」
「低能――低能と申しますと、まず一人前に通用しない、馬鹿といった異名でございますね、そうおっしゃられちゃあ、鐚《びた》もあとへ引けません」
「怒ったな」
「怒りました、人間、低能呼ばわりをされて、怒らない馬鹿はありません、怒りました、真に怒りました」
「そうだ、低能と言われて憤りを発した貴様は、まだ脈がある」
「脈どころじゃございません、この通り、癇癪玉《かんしゃくだま》が破裂いたしました、さあ、こうなった以上は、矢でも鉄砲でも持っていらっしゃい、殿様のお出しなさる試験を立派に受けてごらんに入れます、試験地獄の突破」
「頼もしい、その意気、さて、貴様もいよいよ江戸が灰になるという時分に、その意気と、憤りを発して、節を屈せずという勇気があればめでたいもんだが、いざとなるとそうは参るまい、麻雀《マージャン》がはやれば麻雀、競馬がはやれば競馬、貧窮組が盛んな時は貧窮組に走り、公武合体という時節には公武合体へおべっか――貴様なんぞは、それで生きて行けばいいん
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