の人は、そう早起をする男ではないけれども、眼が醒めれば直ぐ人を呼んで、何かと仕事を命ずる癖のある男ですが、今朝に限って、眼がさめたに拘らず、自ら起き上るでもなければ、人を呼ぶということをいたしません。
 ぽっかりと眼をあいて、夜具の中で天井を見ているだけです。
 本来ならば、昨日来、あんな行いをしでかし、あんな目に遭《あ》って、ほうほうの体《てい》でわが家へ逃げ込んで来たのだから、目がさめるや否や、癇癪玉《かんしゃくだま》が勃発し、自暴《やけ》がこみ上げて、婆やを呼びつけて自暴酒を言いつけるくらいのことはあるべきはずでしたが、それにしては今朝はおとなしい。病気でもあるのかと思えば、そうでもない。三ツ目の眼は爛々《らんらん》と光って、そうして無意識に天井を見つめている形相は、やっぱり生《なま》やさしいものではなかった。やがて、自暴とも歎息ともつかない太い息が、潮を吹いた鯨のように、天井に向って立ちのぼったが、
「ああ、ああ、ああ、ちぇッ」
という号音が起りました。
 神尾主膳は、ぽかんと天井を睨《にら》んでいるだけではなかったのです。無意味に起きも上られなかったのではない、何か知らない重圧力が、自分の頭と胸とに加わっていて、それが、眼がさめた後も、急に取払いきれない、その重圧のために、失神したもののように、暫く官能が停滞状態に置かれてあったというだけで、やっと少しはその重圧がとれたと思う隙に、右のような号音を立てて、
「うむ、うむ、うむ、おりゃ、死ぬよ、死ぬよ、おれは徳川のために死んでみせるよ、誰が何と言おうとも、おれが一人、江戸の城を枕にして、この槍を衾《しとね》にして、死んでみせるよ」
とうなりました。
 これは譫言《うわごと》ではなかったのです。眼がさめて、正確な意識を取戻した時の独語《ひとりごと》でありました。
 昨夜、骨ヶ原から、夢中で、どこをどう通ったか、自分ではかいもく自覚しないながら、とにかく根岸の里へ転げ込んで、あやまたず我が家へ逃げ込んだことは、夢でなくして夢同様であって、自分で自分の行路がわからないけれども、その間、この頭が烈火の如く燃えさかっていたことだけはよく覚えている。その燃えさかる憤怒の一念で頭がいっぱいであって、走る足は空《そら》であったことは覚えている。
 彼は何をそれほど憤ったか、隠亡風情《おんぼうふぜい》までが、天下の時勢を論ずる生意気を憤った。隠亡風情にまで見くびられる徳川の末世を憤った。いかに末世とは言いながら、人間の数に入り難き非人共が、人に聞かれぬところとはいえ、あの無礼極まる雑言、冒涜《ぼうとく》、非倫のほざき方はどうだ。かつまた、わが旗本に加えたあの極度の侮辱の言動はどうだ。八万枚の干物が出来る、長州にやられる、薩摩にやられる――今や江戸と旗本は、天下に見くびられものの見本となっている。
 神尾は、隠亡風情の侮辱を、火のようになって憤ったが、その鬱憤を吹っかけるに相手がなかった、酒がなかった。
 そのまま、紛々乱々として、辛うじて眠りについて今朝になってみると、酒の気が抜けていたせいか、変に気が弱くなっている。弱くなったのではない、考えさせられるものがあって頭が重いのだ。
 事実、果して今の徳川の天下は、あいつら隠亡共が、骨ヶ原の一角から見たような世相になっているのかしら――おれは時事問題などに頓着はない、なあに、三百年来の徳川だ、神祖の威光を以て天下を預っている徳川だ、西国方の大小名どもが束になってかかろうとも、歯が立つものか、蟷螂《とうろう》の斧《おの》だ、いざとなれば旗本八万騎が物を言う、痩《や》せても枯れても三百年来の江戸だ――今日までタカをくくっていたのだが、時勢が、事実そんなに急激に変動して来たのか。
 徳川を倒して、第二の幕府を作るものは薩摩だと、あの隠亡《おんぼう》らまでが取沙汰《とりざた》している。薩摩でなければ長州だと、相場がきまったようなことを、あいつらまで言っている。事実はほんとうにそこまで行っているのか。
 事実、そういう場合になったとしたら、おれはどうなるのだ、おれは先祖以来の家格を棒に振ってはいるけれども、それでもこうしてのさばって生きていられるのは、江戸というものがあればこそだ、甲府勝手にも廻されたし、知行所へ押込め隠居にもさせられたが、結局、江戸という後ろだてと家格があればこそ、こうして自堕落にものさばっておられるが、万一、江戸が灰となった日には、どこへ行って、どうして生きるのだ。
 神尾主膳は、それを今、考えさせられているために枕が上らないので、およそ神尾として、今日まで、さきからさきを考えて生活したというようなことはない。それが珍しく将来の生き方について考えさせられているために、頭が重いのです。
 ずいぶん長い間、こういう姿勢を以て、身動きも
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