ねら》ってるんだってじゃねえか」
「いいえ、薩摩より長州の方が上手《うわて》だってえ奴があるよ、徳川の天下ぁ長州が横取りをすることになってるだそうだ」
「太え奴等だな」
「太え奴等だが、こう旗本が意気地がなくっちゃあ、本当に天下を取られてしまうかも知れねえぜ」
「危ねえもんだ」
「どっちでもいいや、薩摩とか、長州とかが天下ぁ取った日にゃ、徳川様ぁどうなるだ」
「この江戸の町はどうなるだ」
「そりゃ、徳川家は亡びるのさ、江戸の町はみんな焼かれて灰になっちまわあな」
「そりゃ大変だ」
「そうなると、お処刑場《しおきば》もいらなくなるな、おいらの仕事も上ったり、食うことができなくなる」
「なあに、おいらたちなんざあ、隠亡の仕事がなければ、また何か稼《かせ》ぐ仕事は出て来らあ、おれたちぁ腕一本ありゃ、食いっぱぐれはねえが、食えなくなるのは旗本だ」
「そうだ、徳川が亡びりゃ、八万騎の旗本の知行が上ったりだ、そうすると、八万枚の干物《ひもの》が出来らあ」
「くさやの干物なら、いつでも値売れがするが、旗本の干物はあんまり売れめえ」
「意気地がねえなあ」
「ほんとに、ひとごとじゃねえ、腹が立つよ、八万人もいたら、薩摩や長州の一つや二つ、何とかなりそうなものじゃねえか」
「ところが、何万枚あったって、いか[#「いか」に傍点]やするめ[#「するめ」に傍点]と同様、骨がねえんだからやりきれねえ」
「骨がねえのかな」
「骨っぽい奴がいねえんだよ、第一、この間の長州征伐を見ろ」
「うん」
「長州征伐でもって、将軍様が出かけてさ、関ヶ原この方の大軍を[#「大軍を」は底本では「大軍が」]集めたのはいいが、鎧《よろい》の着方や、馬の乗り方を忘れた旗本が片っぱしだったんだ」
「そればっかじゃねえ、箱根の山へ行くと、もう足が棒になって、一足も歩けねえなんていう旗本がザラにあった、あれで、鎧を着て戦争をしようてんだからスサまじい」
「そこへ行くと、長州には高杉晋作なんてエラ物《ぶつ》がいて、幕府の兵隊の足許を見くびっちゃって、鼻唄まじりで引寄せてはひっぱたき、引寄せてはひっぱたき、幕府の兵隊を木端微塵《こっぱみじん》にやっつけてしまうというじゃねえか、戦争にならねえ、江戸の方は戦争したって勝つ見込みはねえ、ただ何とかして体裁を作って、早く引上げてえだけの話だってじゃねえか」
「そうなっちゃ、もう、士気が振わねえから、戦《いくさ》なんぞ勝てっこはねえさ」
「旗本が駄目なんだ――だが、長州というやつも図太いなあ、てんで将軍様を嘗《な》めてやがるんだぜ、この前、江戸から、ソラ、中根何とかいう大目附がお使番として長州へ乗込んだろう、あの時、お前、幕府のお使番といやあ、将軍様の名代《みょうだい》だろう、そのお使番を長州がなぶり殺しにしちまったんだぜ、そうしてその言い草が、また図々しい。それをお前、幕府の方で、てんで手出しができねえで、うやむやにされちまったんだから、嘗めたものだ、旗本もこう嘗められちゃたまらねえ」
「それにお前、この骨ヶ原で、あの、それ、吉田寅次郎がお処刑《しおき》になって、首が上ったろう、そうしてお前たちと、あそこの角んところへ胴中《どうなか》を埋《い》けたろう、そうすると、お前、その翌日だったか、もう長州ざむれえ[#「ざむれえ」に傍点]がやって来て、その屍体を掘り出して、首をあの台から卸してつぎ合わせて、同勢が馬に乗り、槍をもって引上げて、上野の三橋の前を大手を振って通って行ったが、町奉行の役人は見て見ねえふりさ。何しても長州ざむれえの元気はすばらしいが、江戸の旗本はみじめなもんだ、骨がねえんだ」
「そうすると、徳川が亡ぼされて、江戸が灰になって、旗本八万枚の干物が出来るのも遠からずだあな」
「遠からずだあ」
神尾主膳は、もはや我慢なり難く思いました。ところが人里を離れた骨ヶ原の中で、往来の人もない、聞く人もないと思って、出放題も程のあったものだ。隠亡風情《おんぼうふぜい》の身で、将軍家と旗本に向って、聞くに堪えぬ暴言雑言《ぼうげんぞうごん》、憤怒に駆られた神尾主膳は、前後をおもんぱかる暇《いとま》もなく、
「コラ、無礼者、貴様たち、言語道断の代物《しろもの》、覚悟いたせ」
こう言って、闇中から罵詈怒号《ばりどごう》した神尾主膳の一言に、隠亡どもの驚愕狼狽は譬《たと》うるにものなく、焚火を踏み越え、卵塔を飛び越えて闇中を逃げ出しました。
隠亡共を叱り飛ばすと共に、神尾主膳もそれと反対の方面へやみくもに逃げ去りました。
八十六
それから、神尾主膳は、どこをどうしたか、翌朝は根岸の三ツ目屋敷に戻って来て、思いきり朝寝をして、日のかんかんする時分に、やっと眼が醒《さ》めました。
眼がさめたけれども、主膳は容易に頭を上げません。こ
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