ススメラレ結婚シ、ソレヨリ非常ニ淪落シ、窃盗罪デ告発サルルニ到リシ事アリ、コレハ既ニ見ラレタル上ハト焼ケ糞ニナル事ト存候(印度モ同風アリ、賤民ガ死人ノ中ニ臥セル所ヘ、方術ヲ修メニ行キシ王女ガ既ニ裸体ヲ見ラレタル上ハト王ガ、其王女ヲ乞食ノ妻トセシコト仏経ニ見エ候)」
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 いずれにしても習慣の圧力は大きい。すでに白日の下で、衆人の環視する真中で、男に肌へ手を触れられたことは隠す由もない。それは相手が全く見ず知らず、しかも色気《いろけ》があるわけでも、食気《くいけ》があるわけでもなんでもない、一方の生命の危険から、ほとんど天災というよりほかはない女の立場であったに拘らず、男に肌に手を触れられたという一点から言えば、団体の総てが証明しなければならない羽目に置かれた娘の運命は、気の毒千万のものでありました。しかも、その気の毒千万が、一時の急場の怪我だと水に流してしまえない、湯で洗い切ってしまえない、否でも応でも手を触れた男に、これからの運命を托してしまわなければならないとは、何たる不幸であろうぞ。しかも、なお、こういう退引《のっぴき》ならぬ場合の避難の意味で用いたひっかかりが、生涯この一人の女性の面倒を見なければならない負担として引きずられる、ということになってみると、男の方の迷惑もまた名状し難いものと言わなければならない。
 入れかわり立代り事情を述べる一隊の者の口上を聞いているうちに、さすがの七兵衛も、全くむせ返ってしまわざるを得ない。辞退すれば忽《たちま》ちこの娘の生命の問題となる――そうかといって、この身でこのまま、この年をして、この娘を連れてどこへ行ける。
 おおかたの場合に窮するということを知らぬ七兵衛も、今ここでは、全く逃げ場を失って、思慮分別が及ばなくなりました。かなわぬ時の仏頼《ほとけだの》み、おぞくも七兵衛は、またしても兵助の前に兜《かぶと》を脱いで、
「兵助さん――お聞きなさる通りだ、全く以て、こればっかりは挨拶のしようがござんせん、親分、何とかひとつ頼みます」
 頼むと言われて後へは引けないはずの兵助も、この頼みは、よし引受けたと言い切れませんでした。七兵衛が衆に向って挨拶のしようがない如く、兵助は七兵衛に対して返事のしようがない。
 しかし、誰か何とかきっかけをつけなければならない。眼をつぶっていた兵助は、この時、ブルっと身震いをして立ち上り、
「せっかくだが、こういう挨拶は、わしにも不向きだ、まあ、降りかかった災難だから、御当人が身に引受けるほかには仕方がござんすめえ。仕方がねえから、娘っ子を連れて釜石までおいでなせえ、釜石へ行けば、お前さんを乗せる船が、ちゃあんと着いて待っている、その船にゃ……こらとらより、ずんと優れたエライ方がおいでなさるんだ、その方に相談して何とか始末をつけておもらいなせえ、この捌《さば》きばっかりは兵助の手には負えねえ」
 こう言ったのは、まさしく七兵衛の頼みを正面から突っぱねたもので、同時に兵助は群がる人を呼んで、
「な、お前さんたち、こいつはおれには口がきけねえから、お前たちの方で、この方を釜石の港までお見送り申しな、そうして、今いう通り、そこに結構な大船が着いてござる、その中には、日本一の知恵者がおいでなさるんだから、そちらへ行って、ともかくも申し上げてみな――わしゃ、これで御免を蒙《こうむ》るよ、では七兵衛さん、御縁があったらいずれまた……」
 兵助は、すっくと立って、あとをも振返らずに、たった一人出て行ってしまいます。その袖に縋《すが》ることは、なんぼなんでも七兵衛にはできない。

         八十四

 百姓を斬って、骨《こつ》ヶ原《ぱら》の処刑場《しおきば》の中へ逃げ込んだ神尾主膳は、それと知って思わずギョッとしました。こういう際であるけれども、処刑場ときては、いい気持がしなかったらしい。
 だが、仕方がない、動くのは危険だが、こんな忌々《いまいま》しいところは早く退散してしまいたい。しかし、てんで方角がわからない。
 やむなく、生首《なまくび》の下にひそんで暫く思案をしていると、あちらの一方からチラチラと火の光が見えて、たしかに幾人かの人がやって来る。執念深い追手だ――だが、先方は手に手にカンテラ様のものを携えているが、存外せかない。悠々閑々とカンテラを振り廻しながら歩いている体《てい》は、たしかに人を追っかける追手の気色ではない。
 ややあって、彼等は墓地の真中どころと覚《おぼ》しいあたりへ来て、
「どっこいしょ」
と言って、そこへ何物かを卸して、同時に丸くなって廓座《くるわざ》をこしらえたものらしい。しばらくすると、プシプシと木の燃える音、輪座《くるまざ》になって、そうして焚火をはじめたのだ。焚火の火が赤々と燃え上るにつれて、集まった
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