ました。
 湯上り組と共に、いったん上って、ふんどしを締め直したものか、それとも、もう少しここに踏み止まって、殿《しんがり》の部分を承って出た方が安全か――と考えて、ひそかに例の東の隅の一角の胡麻塩頭に眼をくれると、先方は相変らず、一向こちらに頓着はなく、多くが湯上りをするのに、この男は急ぐ様子もない。
 はて、あいつが、ああして動かないでいる以上は、こっちも動けないぞ、裸で人の蔭に隠れて湯の中へ身を没している分には無事なようなものだが、さっと全身を茹《ゆ》で上げてしまった日には、ゲジゲジの舐《な》めたあとまで見られてしまう。大久保彦左衛門ではないが、おれの身体に古い傷がないと誰が言う。
 それにまた、おれは、いま御多分と一緒に飛び出してみたところで、第一あの白木綿の六尺の切りたての化粧まわしを用いているが、おれには、それがないのだ。お手のもので、人のをちょろまかして一時をつくろう分にはなんでもないが、それでは、すぐに馬脚が現われてしまう。
 よしよし、このままで頑張《がんば》れるだけ頑張れ、残らず出てしまったら、出てしまった時のこと――それにしても、あの胡麻塩頭は、気になって見ると、相変らず同じところを占めて、悠々閑々と構えこんでいる、人が透いたから、今まで人の頭越しに遮《さえぎ》られていた頭も、顔も、全部がこちらの対角から、最もあざやかに見て取られる。
 いや、こいつは本物だ――と七兵衛が退引《のっぴき》させられぬ思いをしたのは、顔面の左の部分にちらと認めた傷のあとです。こめかみ[#「こめかみ」に傍点]のところから頬へかけて、一筋なでられている、もうかなり年代を経た傷あとだから、まざまざということはないが、見る人が見るとわかる、ことに七兵衛の今の眼で見ると、パックリ赤い口をあいているほどに見える。
 こいつは本物だ、本物だ、只物ではねえ、只物でねえとしたら、別物であろうはずはねえ、こいつが、その仙台の仏兵助という奴に紛れもねえ――おれをつかまえて、すんでのことに縄をかけた奴だ。そう思って見ると、兵助を後ろに、左右に遊弋《ゆうよく》している五ツ六ツの水瓜頭《すいかあたま》も、みんなあいつの身内と見える。
 ござったな――七兵衛は、それをそうと確認すると、かえって度胸が出て参りました。
 こいつ、この七兵衛の向うを張って、先廻りとは癪《しゃく》だ。先廻りをされたのは癪だが、これは地の利で仕方がねえ、こっちは案内知らずの他国者、相手は兎の抜け道まで知っていようという土地ッ子だ、ことに手先や子分が到るところに網を張っている、この道をこう追い廻せば、いやでもこの壺へ落ちるくらいのことは蛇《じゃ》の道でなくても心得ている、そこへがむしゃらに追い込まれたこっちは、まア運の尽きというものだ、足に覚えはあるから、走ることは走るといったところで、こっちは勾股《こうこ》を念入りに曲って走っている間に、あっちは弦《げん》を直走して先廻りと来りゃ、網にひっかかるのはあたりまえ、こっちの抜かりじゃあねえ、向うが明る過ぎるのだ。
 だが、そんな負惜みは、こうなってみると通らない、眼前に敵が大手をひろげていようというものを、癇癪玉だけでは済まされねえ、もうこうなっては、一かバチかあるのみだ、どう考えても、七兵衛まだこの辺で年貢を納める気になれねえのだから、こう手が廻っては仕方がねえ、へたに分別して、後手《ごて》を食っちゃあ万事おしまい、そこで、七兵衛は手拭を鷲掴《わしづか》みにして、すっくと湯壺の中から立ち上りました。
 まず、何はおいても裸で道中はならない。手早く、身近に脱ぎっぱなしてあった、団体客のうちから一人の衣裳を奪って、まず切りたての六尺木綿から手早く身に引っかけて置いての芝居と、立ち上ったところを、先方もさるもの、パッと一度に水煙、ではない、湯煙を立てて、
「御用だ!」
 果して、胡麻塩頭の左右に遊弋《ゆうよく》した五つ六つの水瓜頭《すいかあたま》が、むっくりと立ち直って、七兵衛めがけて殺到して来ました。

         七十五

「ふざけやがるな」
 七兵衛は左手で手拭を持って前を囲いながら、右手で有合わす小砂利を拾って眼つぶしをかけてみたが、それは、さのみ自衛にも、脅威にもなるほどの武器ではありませんでしたが、一時《いっとき》相手がたじろぎました。
 その隙に――団体客の衣服を取って、せめて六尺の晒木綿だけでも身にひっかける余裕がなかったのです――かねて眼はくれていたのだが、五六の相手にやにわに飛びつかれてみれば、その目ざしていた衣裳場の小屋がけまで駈けつけるの前途を塞《ふさ》がれてしまったようなものです。
 ここで、長兵衛以来の珍しい湯壺の乱闘。あれは水野の屋敷で、どこまでも芝居がかりに出来ているが、これは青天白日の下、野天風呂の中
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