で、一糸をまとわぬ野郎共の不意なる立廻り。
 ことに一から十まで七兵衛の立場が悪い。しかし、前なる小屋がけの衣裳脱ぎ場へ飛びつけることを遮《さえぎ》られた七兵衛は、直ちに身をクルリと廻して横っ飛びに飛び込んだところは、意外な急所でありました。これは七兵衛としては天性の警戒性から、いつもするように、入る時は必ずや出づる時のことを慮《おもんぱか》る。いかなる場合にも、出づる時のことをあらかじめ考慮し、且つ計画して置いてから立入ることには周到なる修練を加えている。すでに湯壺に入った時からしてこの男としては、出づる時の計画は十分に成立していなければならないはずでした。
 すなわち、この男は、こうしてこの湯壺に納まったその寸前に、万一の場合を予期して、こうして、こう手が入ったら、ああして、ああ摺《す》り抜けるという思慮と計画は充分に立ててなければならないはずなのでした。いかに、この際うっかり、平和な古《いにし》えの農村気合を味わわせられて、我を忘れてしまったにしてからが、右を押せば左、東から来たら西、と観念はあらかじめ立てていなければならないはずの男でした。
 果して、第一段の策戦は、まず衣裳脱ぎ場の小屋に飛び込んで、有合わす衣類調度をかっさらって身につけてから、という段取りでありましたが、不幸にしてその出端《でばな》を見事に遮られてしまいはしたが、だが、この一段だけでわけもなく参ってしまっては七兵衛らしくない。前を押えられたらば、当然、後ろと左右とに分別が働かなければならないはず。
 しかし、あまりといえば意外に出でたのは、そのまま七兵衛がクルリと踵《きびす》を返して、一散に飛び込んだのは、最初に眼に触れたあの女ばかりの湯壺の中でした。
 飛ぶが如くではない、飛ぶことそのもの以上に素早く、七兵衛は右の女ばかりの湯壺に湯しぶきを立てて飛び込みました。
 しかも、ここではさいぜんの女たちが、一人も湯上りする者がなく、羽衣を忘れた天女のような気分になりきって、皆々極めて平和に、極めて賑《にぎ》わしく、湯壺の中に相語らって嬉々として楽しんでいる。その真中へ、いい年をした七兵衛が飛び込んでしまいました。

         七十六

 この振舞には、追う者もあっけ[#「あっけ」に傍点]に取られたが、飛び込まれた、平和な羽衣なしの天人共の驚愕狼狽というものは、真に名状すべからざるものでありました。
 睦《むつ》まじく入浴していた十人の娘たちは、見栄も外聞もなく、一度にどっと飛び立ち、逃げ出しましたが、その中に、たった一人、逃げ後《おく》れた娘がありました。
 逃げ後れたのではない、驚いて飛び立とうとする途端を、七兵衛の手で押えられてしまったのです。かわいそうに、逃げ後れた一人の娘を、いきなり湯壺の中へ抑《おさ》えつけた七兵衛は、無惨にもその娘の細首へ自分の濡手拭をグッと捲きつけて――締めはしない、手軽く捲きつけただけで、
「静かにしな、お前を殺すんじゃねえから、ちょっとの間おとり[#「おとり」に傍点]になってくんな」
 こう言って娘の子を一人、抑えつけた時に、例の追手がばらばらとはせつけました。
 その時は、河原一帯、この野天の温泉場附近一帯が沸騰してしまったのです。
 追手も沸けば、娘たちも沸く。団体客全体が、挙げて叫喚怒号して、この場へ馳《は》せつけて来るのでした。
「喜代さんが、つかまった」
「喜代さんが、悪者になぐさまれる」
「喜代さんが、あれ、悪者にくびり殺されるよ」
「早く助けてあげておくれ」
「気ちがいです」
「気ちがいじゃな」
「喜代さんがおかわいそうに」
「あれあれ、なぐさまれます」
「あれあれ、殺されます」
 七兵衛から見れば、果してこれは時にとっての機転、あらかじめ入る時に、出る時を制して置いた万々一の策戦の一つ、みんごと人質《ひとじち》を一つせしめ上げたものと見られるが、群集にとっては、何のことだかわからない。悪漢は悪漢に相違ないが、なんぼなんでも悪漢ぶりがこれでは露骨過ぎる――気ちがいだ、気ちがいだ、女に見惚《みと》れて、いきなり発作した色情狂《いろきちがい》と見るよりほか、見ようがない。
 だが、馬鹿だか、気ちがいだか、それを調査している場合ではないのです。とりあえず、その狼藉《ろうぜき》の手から奪還しなければならぬと、一同が件《くだん》の湯壺のほとりへ殺到して来は来たが、これより以上は、手も足も出せない事の体《てい》になっている。
 湯壺の中で七兵衛に抑えられている娘は、この一行中で一番の器量よし、いちばん家柄のよい娘でありました。こういう場合にも、例の入るを計って出づるを制する七兵衛流の警戒ぶりは、かなり聡明に発揮せられている。取押えるにしても、屑は取押えないで、選りぬきのを取りおさえている。
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