下げ終わり]
「泣けます」
「泣けます」
ほめるのだか、交《まぜ》っ返すのだかわからない。
そこんところで、突然に現われた赤い褌《ふんどし》の若造が一人、素頓狂《すっとんきょう》な声を張り上げて、
[#ここから2字下げ]
万人堂《まんにんどう》の
杉のスッポンコラ
槍のようで
さジョや、てんとさま
オカなかろう
[#ここで字下げ終わり]
この素頓狂で、一同がドッと笑う。そこでこの一幕は、陽気な爆笑で崩れた形になる。一幕をワヤにした若造は、何が故に、みんなから、そんなに笑われるのかと怪訝《けげん》な面《かお》が、またおかしいと言ってみんながまた笑う。
七兵衛もおかしいと思ったが、右の素頓狂な唄が何の意味だかよくわからない。茂太郎式に反芻《はんすう》して再応思案してみると、「万人堂の杉のスッポンコラは槍のように尖《とが》っている、さぞお天道様《てんとうさま》も怖いだろう」という意味に受取れる。スッポンコラとは何だかよくわからないが杉の木の尖った梢というほどの意味ではなかろうか。そうだとすると、万人堂の杉の木はすくすくと槍のように尖って生い立っている、あれを上から見るとお天道様も怖がるだろう、という単純無比な表現かと思われてなおおかしくなる。
しかし、考えてみると、自分はこの数日来、足に任せて奥州の真暗闇を走らせられているが、昨日は餓鬼地獄の絵巻物を見せられたかと思えば、今日は歓楽天国の中へ投げ込まれたような心持もしないではない。餓鬼地獄の世界も変だし、歓楽天国も夢の中の世界であるように思われるが、こういうところへ置かれてみると、また悪い心持はしない。
裏宿の七兵衛といえども、人間並みに楽しいことは楽しい、嬉しいことは嬉しいに違いないが、それを人間並みに楽しむことに於ては、性癖がいつしか暗くなっており、人間並みに事を共にするには、進み方が早過ぎておりました。そこで彼は彼として、独得の生き方をしないことには、生きられないようになって、今日まで来ているのですが、そういう後天性を別にして、なんらの表裏のない一個の群集動物としてさし置かれてみさえすれば、彼もまた群集動物並みに無智無邪気に楽しむことができる人間だということが、この際に於ても証明されるというわけです。
すなわち、郷里及びその環境に於ては、七兵衛は、己《おの》れ自身の所業に後暗い心持を持たないということはなく、周囲もまた彼を冷たい眼で見ている。よし彼の所業は衆愚の眼をくらまし得ているとしてからが、彼がなるべく衆を避けるという気持が、群集とはソリの悪いものにしている。しかるに、今こうして全く見ず知らずの土地と人の中へ、無条件に身を齎《もたら》すことができさえすれば、彼はその独得の後天性を、誰に向って気兼ねする必要もなく、周囲もまた、彼を特に冷たい眼を以て見なければならないという因縁は、全く解放されているのです。
ですから、この瞬間に於ては、七兵衛は、純粋に楽しいものを楽しとする子供心にさえかえることを得たので、自分もまあこうして馬鹿になって、みんなと共に楽しむことができさえしたら、永久に、どんなに仕合せであるか、とさえ愚痴を催すのもやむを得ない。
これより先、ふっと、この湯壺の中に、なんとなく七兵衛の眼を引立てるものがありました。といっても、別段、湯壺の中の人の数に異変があったというわけではない――湯壺の隅の川沿いの東の一角に背をもたせて、七兵衛と同じように耳もとをごしごしやりながら、テレ臭く湯につかっている一人の男がある――ことが気になり出しました。
七十四
ひとしきり芸づくしが終って、やがて、また第二の我に返ってみると、さっきのあの怪しい、東の隅の一角の男はどうなった。
とりあえずそれが念頭に上ったものですから、七兵衛は幾つもの人間の頭越しに、そちらを見ると、いる、いる。
しゃあしゃあとして、まだああしていやがる、うっかりこっちが有頂天になっていた間に、こっそり、こっちの顔色をうかがってでもいたかと思うと、そんな素振《そぶり》はないが、いくつものかぼちゃ頭の間に、胡麻塩をふりかけた彼の髪の毛が動かずに浮いている。
気にかかる奴だなあ――
そのうちに、さしも芋を盛ったような、この天然風呂の浴客が、一人立ち、二人立ち、三人出る、五人出る、だんだんに湯から上っては手拭で身体《からだ》を拭き、晒木綿《さらしもめん》の六尺を捲きにかかりました。
ぞろぞろと湯上りにかかるものもあるが、また相変らずじっくりと腰を湯壺の中に据《す》え込んでいる者もある。風呂の中は大分動揺もしたし、留まるものよりは、上る者の方が多いけれども、さりとて全員争って出て行くというわけでもない。
こういう際に七兵衛は、どういう行動をとったらいいかということに少し惑い
前へ
次へ
全92ページ中68ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
中里 介山 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング