もゆるのお嬢さん一人を占有して
それでいいと誰が言います
ですから
駒井船長の考えはエライけれども
早晩この間に
もんちゃくが起らなければ
起らないのが不思議です
いや、不思議ではない
もう起っているのです
それは誰々だと申しませんが
マドロス君一人が
いい気になっている
それを覘《ねら》っているものが
たしかにこの船には二人以上あるのです
わたしは
それを何とも言えない
マドロス君だけが
もゆるのお嬢さん一人を
誘惑してそれでいいと
誰が言います
早晩
はげしい争闘が必ず起ります
いや、もうすでに起りつつあるのです
[#ここで字下げ終わり]
 白雲は、それを聞いた時に、この辺で発言禁止をしなければならないと感じて、
「茂、もうでたらめをやめろ!」

         六十九

「茂、もういいからキャビンへ行って寝てしまえ」
 田山白雲は、茂太郎を甲板の下へ押しやって、自分は、なお隈《くま》なく上層を検分して、また船室の方へ下って行き、お松の室の前を通りかかると、中から燈光が漏《も》れる。
「お松さん、まだ寝ませんか」
「はい」
 立派に起きて仕事をしているような緊張味のある返事です。ドアを少し開いて、
「まだ御勉強ですな」
「いいえ――少しばかり」
 卓子に向って、お松は今まで一心不乱に物を書いていたらしい。物を書くというのは、何か原稿を書いていたらしい。卓子の上には堆《うずだか》く何枚もの罫紙《けいし》が積まれている。
「何です、何をお書きなさる」
「船長様に言いつけられた写しものをしております」
「その写し物は何です」
と、白雲は少々押しを強めてみますと、
「いいえ、何かあちらの御本にあることを翻訳なさいまして……」
とお松の、要領を得たような、得ないような返答を、白雲はナゼか、なお少々しつこく、もう一ぺん押してみました、
「何の翻訳です」
「何の御本ですか、わたくしにはわかりませんけれど」
 白雲もそれ以上は押しませんでした。
「まあ、勉強も度を越さないようになさい、眼をこわしてはいけません」
 お座なりの忠告をして、そのまま扉を締めて外へ出ました。
 そこで、白雲が、また少し考えさせられたことがあるのです。
 お松さんという娘は、たちのいい娘《こ》だ。今はこの無名丸の唯一の内助方と、駒井船長の二つなき秘書役をつとめている。船にとっても無上の内助者であるし、駒井船長にとってもかけがえのない名秘書であることを、ひそかに慶賀しているが、お松の今夜の勉強ぶりに対して、白雲がなんとなく、一抹《いちまつ》の不満を感ずるような心地がされたのは、それは、さいぜんからの駒井船長との会話と、それに引続く甲板上の暗闘と、それから露骨なる清澄の茂太郎の反芻《はんすう》とからの持越しの晴れやらぬ心が、お松の夜更けの勉強ぶりに反映するものがあって、そうして、白雲の心を曇らせているのです。
 その予備感覚がなければ、お松のこの勉強ぶりに、淡泊無雑なる敬愛の念を持ち得たのだが、それがあったために、あの原稿紙が今夜に限って、真白な色にばかりは見えないのであります。
 そこで、今もした通り、いつもよりは多少しつこく、それは何を書いているのです、写し物は何です、翻訳はいったい何種のものの翻訳? とまで、つきつめた駄目を押してみる気にもなったのですが、お松が書いている原稿そのものが、さいぜん聞かされた駒井氏の持論と、それから、無意識に茂太郎の反芻によって曝露《ばくろ》された内容と、相関聯しないという限りはない。
 そこで、田山白雲は、二度まで、つくづくと考えさせられました。
 茂の野郎が、たとえ無意識の反芻とは言いながら、ああいうことを口走るのはよくない。口走る方には罪がないとしても、口走らせるに至る物象によろしくないものがある。彼が高唱する出鱈目《でたらめ》のその多くは、突飛であり、お愛嬌であるに過ぎないが、彼の口から、一夫多妻、一妻多夫論の一端を高唱せしむるに至っては、断じて、お愛嬌なる出鱈目の一種としてのみ看過せらるべきではない。
 しかし、茂公は茂公として、彼自身が意識していない囈語《うわごと》の一種だから、その点は責むる由はないが、今、貞実無比なるお松が、深夜、入念に筆写を試みているその内容は、これは決して無意識に筆を運んでいるものとは受取れない。茂太郎の如く無遠慮に高唱しないだけに、その筆端の一字一句が、あの聡明なお松の理解力と感覚に触れることなしには、表現されないはずのものなのである。
 そう考えると、田山白雲は、どうしても、お松がいま一心不乱に筆写しているところのものの内容が、当然、駒井のさきほどの持論と、茂太郎の反芻と、必然的に交渉を持たない限りはないということを聯想せしめられる。茂太郎が高唱したものの、なおいっそう深刻にして精緻《せ
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