いち》な内容が、あの原稿紙に載せられつつある。
 それを思うと、田山白雲は、いよいよ考えさせられるものが※[#「「分/土」」、第4水準2−4−65]湧《ふんよう》して来る。
 駒井氏は、あれを翻訳し、自ら草稿を作ったり、或いはお松に面《ま》のあたり口授《くじゅ》したりして、著作を試みているに相違ない。
 貞実無比の女性とは言いながら、まだ若い娘である。それで、ああいう大胆な世界的の性知識を、無遠慮にブチまけてよいものか、どうか。
 駒井なればこそ、お松さんなればこそだが、その一端をでも、茂公の如きに盗み見られたり、小耳にハサまれたりした日には、すなわち今のような収拾いたし難き発声となって、遠慮会釈なくブチ蒔《ま》かれる。
 いったい、駒井氏という人は、道徳的の君子なのか、科学的の学徒なのか、その辺の差別がありそうでない。田山白雲は、二人の人格を信ずるけれども、お松が書きつつあった堆《うずだか》い原稿紙に向って、むらむらと一種の敵意のようなものの湧くのを禁ずることができませんでした。

         七十

 白雲も無名丸の警視総監として、今夜は特に多事多忙なるに昂奮を感ぜしめられつつ、その頭燃《ずねん》を冷さんために、再び現われるでもなく甲板上に現われて、そぞろ歩きに似た歩き方を試みている途端に、ハッとその足を止めざるを得なかったのは、先刻のメイン・マストの下に、またしても人がいる。
 茂公のやつ、あれほど言ったのに、まだこの辺にうろついている。一喝《いっかつ》して追い飛ばしてくれようと身構えた時に、それは茂公ではないことが直ちにわかりました。
 茂公ではないが、ちょうど茂公程度の小さいのが、柱の下にうずくまっていることは明らかで、それが急病にでもうなされて、起きも上れないのかと見ると、やがて半身を起して、両手を組んで高く差し上げたところを見ると、病人ではない。
 白雲は、立ち止って、その挙動を仔細に凝視する立場になったのは、物体そのものにも忽《たちま》ち諒解が届いたからなのであります。
「金椎君《キンツイくん》だ」
 これは、支那少年の金椎君でありました。白雲はその金椎なることを受取るには、長い時間を要しませんでしたけれども、認められた金椎に於ては、白雲の来《きた》って彼の後ろに彳《たたず》むということを更に感づきません。
 何事にか夢中になって、それで己《おの》れの背後に人の来り彳むことを忘れたのではありません。本来、この少年は聾《つんぼ》で、そうして唖《おし》です。じらい聾なるが故に唖となったのか、唖なるが故に聾とされたのか、それは別問題として、この少年は五官のうち、見ることは許され、聞くことということは許されないのですから、後ろから来る人の物音には、いっこう気づかない本能を成している上に、これも何か特に一心不乱になるものがあって、たとえ耳あって聞くことを許され、口あって言うことを可能とされておりながらも、心の昂上と、熱心とのために、その働きを塞《ふさ》がれているほどの統一を白雲は凝視している。
 両手を組んで、高く差し上げたかと思うと、再びそれを下に卸して、首を下につけた、というよりは、五体のすべてを投げ出して平伏《ひれふ》しました。その度毎に、声はないが激しい震動がある。激しい魂の震動があって、凝視している白雲の心臓にこたえるものがある。
 彼は仰いで天に訴え、伏して地に訴えるの形をしているのだ。仏教でよくいう五体投地の形をしているのだ。つまり、天地神明に対して、身を以て祷《いの》りつつあるのだという感動をも、田山白雲は直ちに受取ってしまいました。
「金椎さんは、イエスキリストを信じています」
 これは常に清澄の茂太郎が高らかに呼ぶところの反芻《はんすう》の一句でありますから、白雲は即座に、それをその通り受取ることができる。
「いかにも、この少年はイエスキリストを信じている、イエスキリストというのは、つまり、キリシタンバテレンなんだ――だが」
 白雲は、キリシタンバテレンに対しては、先入的に好感は持てないながら、なんにしても一箇の生霊が全心全力を挙げて、天地の間に礼拝《らいはい》している形式そのものに対しては、粗略になれない。
 何とは知らず、骨までゾッとしたものに襲われて、この少年の挙動をさまたげてはならない――という気になって、粛然として息を呑んでいると、五体投地の少年の前面に、つまり、親柱の麓《ふもと》のところに、異様にかがやくものの存在を認めました。よく見ると、夜目にもしるき丈《たけ》一尺ばかりなる銀の十字の柱が、厳然と押立てられて、少年はその銀の十字の柱を対象として、全身全霊を以て礼拝している。今や、白雲自身が、今夜いままでのあらゆる紛々たる感覚を忘却して、凝然として、十字の柱の前に輾転躍動する支那少年
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