伝え聞いたらしいこの怪少年が、ここでほとんど無意識に反芻《はんすう》を試み出そうとしているのだということをさとりました。そうして、いよいよ油断も隙もならないということを、金品や、性慾の上だけではない、単に知識というものだけでも、不用意にその辺へぶちまけて置くものではない、ということをさとらざるを得ませんでした。
六十八
それにも頓着することなしに、ハズミのついた清澄の茂太郎は、箒をカセにして、掃きながら歌い、歌いながら足踏みをはじめ出しました。
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ウエスター・マークの
言うところによると
印度《インド》のある国では
四人五人の男の兄弟があって
その総領が年頃になって
お嫁さんを娶《めと》ると
次の弟が年頃になると
そのお嫁さんがまたその人の妻になる
その次の弟が年頃になると
またその弟の妻になる
そういう順序で
一人のお嫁さんが
六人の男の妻となっている
そういう風俗があるそうです
またシーザアが
古代ブリトン人に就いて
言った言葉の中に
彼等は十人か十二人の夫
ことにそれが兄弟同士
または親子同士で
一人の妻を共有にしている
と書いてあるそうです
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高らかに歌ったかと思うと、急に反身《そりみ》になって、
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一夫多妻の国では
一妻多夫を野蛮だと申します
一妻多夫の国の女は
一人の女が一人の夫しか持てない
そんな不自由な国には
住みたくないというそうです
土地のならわしで
道徳上から一概にかれこれ言えないと
駒井先生が
お松さんに向って
話しているのを
わたしは聞きました
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嗚呼《ああ》、こうなってみると、この少年がこの船にいる限り、研究的の話もできない。駒井甚三郎は何かの拍子に、研究室に秘書をつとめることのあるお松に向って、ふと、こんなことを話したのを、いつのまにか、この敏感な少年に立ち聞きされてしまったらしい。ただ単に立ち聞きされただけで、こう大びらに反芻《はんすう》宣伝されてしまっては、全く油断も隙《すき》もあったものではない。
田山白雲は呆《あき》れるばかりでしたけれども、言うだけは言わせて、歌うだけ歌わせることによって、相当の暗示が与えられないこともない。話せと言っては話さないこと、白状せよと改まって詰問すると、テコでも唇を開かないことを、本人自発のいい気持で歌わせると、ペラペラと外へ出してしまう。その点もあるから、白雲は舌を捲きながら、その即興を乱さないようにしていると、つづいて散文から詩となり、でたらめが即ち知識となって続々飛び出して来ます――
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マルコポーロの
旅日記というのを
見ると
やっぱり多数の男が
一人の細君を共有しているところが
多いそうです
一人の女が
多くの夫を持つという習わしは
たいていは
その国の女が少ないか
そうでなければ
地味の痩《や》せた
生活が苦しい国にあるそうで
その必要に迫られて
そうなるのだそうです
ですから
この国の風習を以て
直ちにかの国の風習を
不道徳なり
非文明なり
非人道なり
野蛮なり
ときめることは当りません
土地と
人口と
歴史と
習慣とがさせる業で……
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いよいよ出でて、何というコマシャクレた言い方であろう。白雲は化け物の歌を聞いているような妖味にさえ襲われて、なお黙って聞いていると、急に散文朗読体が、演説口調に変って、
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さて皆さん
これを現在
わたしたちが
一王国となして
乗込んでいる
この無名丸の社会と
引きくらべてみたら
どうでしょう
実際問題ですよ
御承知の通り
この船には
男が多くて女が少ないです
男は美男子の駒井船長をはじめ
豪傑の田山白雲先生
豪傑の卵の柳田平治君
だらしのないマドロス君
房州から来た船頭の松吉さん
同じく清八さん
同じく九一さん
月ノ浦から乗込んだ平太郎大工さん
同じく松兵衛さん
漁師の徳蔵さん
それから、今はいないが、いつかこの船に帰って来るはずの
何の商売だかわからない七兵衛おやじ
それに、若君の登さん
つんぼの金椎君《キンツイくん》
さて、しんがりに
かく申す清澄の茂太郎も
これで男の端くれなんです
かく数えてみますると
この無名丸の中には
男と名のつく者が
都合十三人
それなのに女というものは
登さんのばあやさん
お松さん
それからもゆるさん
その三人きりなんです
十三人の男に
三人の女――
もし駒井船長が
理想の、人のいない島を求めて
そこに一王国を作るとしたら
いま申す
世界のドコかの国と同じような
女が不足の国になります
そうなりますと
女を奪い合わない限り
その割りふりがむずかしい
実際こんなむずかしいことはない
マドロス君だけ
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