たい三昧と、享楽主義は、二人以上の社会になると、衝突し、破壊されてしまいます」
「わからないです、我々の頭では、そういう先から先のことはわからないです、そういうことで、あなたと太刀打《たちう》ちするだけの素養が、拙者にはないです、承るだけにしましょう」
「こういうことを言っている人があるのです、つまり男女の関係というもの、性慾のこととか、結婚とかいうものはです、これは本来、人間が快楽をするために存するのではない、役に立つ人間を殖《ふ》やして、その国土をよくするためにすることだ、だから、悪い子供を産むのはいけない、産ませるのはいけない、肉体も、精神も、これならという人間だけに限って結婚をさせ、子供を産ませる――その他の人間には、結婚して子を産むことを許さない」
「そりゃ、甚《はなはだ》しく乱暴ですね、秦《しん》の始皇《しこう》といえども、そういう乱暴はしませんでした、出来のいい奴にだけ女をあてがって、ドンドン子を産ませる、出来の悪い奴には女にさわらせない、女の方から言っても同じことになるでしょう――いい女だけに男をあてがって、醜女はくたばれ――これじゃあ、乱暴ですよ、一揆《いっき》暴動が起りますぜ、日本醜男同盟なんというのが起って、美醜の男女が相乱れて闘う――階級闘争――じゃない、容貌戦争が起りますぜ、笑いごとじゃありません」
「ところが田山さん、それらの学者の説はそう乱暴なものじゃないのです、この書物がそれなのですがね」
と言って、駒井は自分の草稿はさし置き、卓上の洋書を一冊とって、白雲に表紙だけを見せますと、その表紙に大きく太陽が金で打ち出してある。白雲が覚束なくその綴《つづ》りを拾い読みして、
「Campanera ――ケムペーネーラですか」
「この書物は、これを書いた人がやはり無人島を一つ求めて、理想の国家を作るという空想を書いてあるのです、人間の生殖というものは、色慾だの、享楽だのが目的のものではない、最も国家のためになる、最もよき人間を生み出すことである、そこで、男女関係のために一つの役所を設ける、そうして、肉体及び精神ともに申し分のない男女だけが子供を生むことを許される」
「そうなると、やっぱり、肉体及び精神が適合しない男は、指をくわえて見ていなければならない」
「そういう男には石女《うまずめ》――すなわち子を生まない女とか、或いは現に妊娠している女を授けるという例外になっている」
「これはまた、少し驚きました。石女、うまずめですな、石女の認定をどうしてするか、ということはさて置き、現に妊娠中の女を授ける――衛生上はとにかくとして、それでは妊娠させた男が承知しますまい、そうなると夫婦関係などというものは無茶です」
「夫婦関係などは本位でなく、ただ国家のためになる丈夫な子供を産み、為めにならない脾弱《ひよわ》な子供を産ませないようにする、ということが原則になるのです」
「そうですか、まあ、空想として、理窟としてなら、何と言ってもさしつかえないはずです、事実上は問題になりません」
「それから男子は二十一歳、女子は十九歳から、皆の性交が許されるのです、そうして二十七歳まで童貞を守っていることは名誉として表彰される――しかしまた一方性交年齢に達しないうち、どうしても性慾に堪えられない早熟者は、そっとその旨を、かねて定めてある媼《ばあ》さんなり、役人なり、或いは医者なりに向って申し出ると、それらの人が、かねて選定してある石女、あるいは、すでに妊娠中の女を提供してその満足に供する――それから、前に申した十九歳|乃至《ないし》二十一歳以上、身体、精神ともに健全で、産児の有資格者には、一週二回だけ同衾《どうきん》が許されて、その際には男女ともに沐浴《もくよく》して、『すこやかにして美しき子を与えたまえ』と神に祈らなければならぬ、そうして婦人の寝室には胎教のために……」
「まあ、お待ち下さい、そうすると、要するに、男女の夫婦関係というものは認めないで、健康と、精神の資格さえあれば、相手かまわずに、入りかわり立ちかわり性交を許すということになるのですな。驚くべきだ、乱暴だ、乱婚だ、不倫至極だ」
「いや、我々が現在の夫婦関係だけを標準とするから、いかにも乱婚不倫に見えるので、この書物全体の見方から言えば、そう一概には言えないのです、そういう趣意に於ての婦人の共有は、官能や、淫乱の故ではない、肉慾に動かされずして、道徳的国家統制の下に行われるのだから、少しも不合理ではなく、不道徳でもないと断言しています」
「なおくわしく、その理論の細かい点をうかがわないと、そういうことは、いくら学者の議論にしたところが、一概には承服でき兼ねます、一概どころではない、本来、一も二もなく排斥さるべき僻論《へきろん》ですよ――」
「しかし、実際問題として……」
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