―男郎というのもおかしなもんだが、そんな乱暴な説を唱える学者があるのですか」
「それは理論で、もとより実行ではありませんが、その理論から出立して、いろいろの是々非々があるようです、物質の共有はよろしいが、婦人の共有はよろしくないという説……」
「それはそうでしょう、現にこの船なぞも、駒井氏の私有とはいうものの、事実は志を同じうする人の共有といったような性質を帯びているに相違ないが、人間をこれと同様に扱って、誰でも乗れる――ということになったら大変だ」
「しかし、理論を究《きわ》める学者連の勝手に言わせると、物も、人も、結局たいした差別はないことになる、あちらには昔から、ユトピアという言葉があるのです、いま言ったプラトーという人が言い出した言葉で、つまり、新しい国を造るということなのです、今までの国家には、いずれにも、今までの歴史と習慣というものがあって、本当に理想の生活を営むことができない、そういう伝統の絶無な社会を想像して、それをユトピア国と名づけ、こうもしたら人間が楽に生活ができるか、ああもしたら人間がよく治まるかと、それを空想に托して書いたものです。そういう類《たぐい》の書物が西洋にはたくさんあるのです、日本の馬琴が書いた夢想兵衛《むそうびょうえ》のような幼稚なものではない、空想とはいえ、なかなかしっかりした根拠を以て書いているが、日本だと、ああいう議論をする書物は、さし当り絶版ものでしょう、ことに最近は――仙台の林子平や、三州の渡辺崋山あたりでさえ、あの通りやられるのだから。しかし、西洋はそこへ行くと、国柄が違うから、言論が自由です――そういうのを読んでみると、奇抜に驚かされもするが、なかなか感心するのもある」
「なるほど、現実には到底できない相談を、小説に書いてみると、書く方も、読む方も、共に愉快で罪がないというのでしょう、貴君はそこへ行くとペロが自由だから、何でも人の知らない書物が読める、羨《うらや》ましいです」
と白雲が、駒井のペロの出来ることを羨ましがっているのは、今日に始まったことではない。ペロというのは、西洋語ということで、白雲の専用慣用語なのですが、駒井は、
「実際、空想だけではつまらないが、そこに科学的の根拠があると、我々には面白いのです、移して以て、実現せしめてみようという気にもなりますからな」
「そうそう、あなたのは確かにその実行力を持っていらっしゃる、この船で無人国土をたずねて、理想楽土を打立ててやってみようということが、他人には途方もない空想だが、あなたには目前の実行ですからな」
「とにかく、そういう書物を頻《しき》りにこのごろは読み出しています、こうなると、書物がもっと欲しいです、江戸にいた時、必要以上に買いためて置いたのが、今では大いに助かりますが、それでも不足を感じつつあります、理想の国土へも着いてみたいが、大いに書物の買えるところへも行ってみたいです」
「そりゃ矛盾だ、本が自由に買える国に、人間の自由なぞはありゃしないでしょう」
と、田山が突発的に一喝《いっかつ》したのが、駒井をして考えさせました。
「面白い断定です、書物の自由に買えるところに、人間の自由はない、そりゃ実に面白い警句ですね、田山さん」
「そんなに感心なさるほどの名文句でしたかね」
「名文句ですとも、それを少し言葉を換えて言いますと、言論の自由な国に、人間の自由はない――ということになります」
「左様に訂正なさっても、あえて異議はございません――」
「全く矛盾です、この矛盾が現在の事実だから、いよいよ変なものです、言論の自由、言論の自由と、人は母の乳でも欲しがるように叫びますけれど、言論が自由になればなるほど、人間の自由は奪われる、実に、皮肉な、悲哀な、人間世界の一面です」
「そうですかなあ」
「そうですとも、もっと卑近にうつしてごらんなさい、思う存分、物を言ったり、書けたりする人間に、多くの幸福が与えられますか、言語を持たない空の鳥や、野の獣《けもの》の方が、遥かに人間より自由であり、幸福ではありませんかね」
「そう理窟ぜめにされると――ちょっと迷いますな、何が自由で、何が幸福だか、人間は人間、鳥は鳥、獣は獣ですから、人間に鳥獣の心持がわからないように、鳥獣にも人間の心持はわかりません、要するに自由というのは、したい三昧《ざんまい》をすることが自由で、幸福というのは、欲しいものが何でも享楽ができるということくらいに、片づけて置くよりほかはないではないですか」
 田山白雲は放胆的に言いましたけれど、駒井は一概にそれをうけがいませんでした。

         六十五

「田山さん、したい三昧するのが自由で、欲しいと思うものが何でも享楽できるのが幸福だというのは一方論で、全体的には成り立ちませんよ、成り立たないのみならず、し
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