ろうとも、インド、アメリカの果てまでも平気で乗り切るだけの腕を持ってるが、残念ながら諸君では、世界はおろか、日本の領海でも、まだ全く心許ないと遠慮のないところ、拙者は想像している。もとより、船中の統制と風儀は、それ以上の問題であることは、拙者に於てもわかりきっているが、そこのところをひとつ、何とかうまく調節ができませんかね、今時はやる公武合体とか、相剋《そうこく》の緩和というやつで――どうです、駒井さん、断然あいつを許してしまってやらせたらどうですか、徹底的に」
「断然許すとは、どういう名分によってですか」
「つまり問題は、ただ一つの性の問題に帰着するんですな、そのほかに、あいつは、深いたくらみや、慾望を持てるほどの奴ではないのです、そこで、あの淫奔娘《いんぽんむすめ》を、あなたの仲人の下に、あいつと結婚させてしまったらどんなものでしょう」
「そうすると、私通淫奔を是認した上に、その結婚を成功させてやる、罰すべきを罰せずして、これに自由と放縦を与える、という結果になりはせぬか」
「いや、そうでないです、今までの罪は罪として、船長に代って拙者がひとつ、屹度《きっと》いましめてみましょう、しかる後、彼を正式に結婚の形式を取らしめ、心を入れ替えて職務の励精を誓わせる――という段取りは不自然でないと思われるですが」
「いやしかし、この乗組にも他に若い者がいる、彼一人が細君携帯で、いや、もう少し立入ると、その細君そのものが、果して細君たる検束力ありや否や――」
「ふーん、あの娘の貞操の保証ができませんか」
「そうです」
「そいつは困ったな」
 珍しく、この場では、田山白雲が最初から妥協的に出でている。厳重な刑罰を意気込んで来た白雲の心持が一転して、船の活用のために、どうかして、あのウスノロの存在を取持ってやりたいことに苦心をしている。その特赦の名分を見つけ出すことに苦心をしてやっているが、結局、それも思うようにゆかない。罪は憎いし、人は惜しい。白雲はしきりに当惑しているが、当惑の点より言えば、当の船長たる駒井は、それに幾倍の上を行っているはず、或いはまた、現に相当の断案を持っているのか、さのみ困惑の色を見せないで、
「この問題はただ、一人一箇だけの問題ではないのだ、我等のために、目下の一つの試験問題であると共に、将来、我々の団体のために、身を以て解決して置かなければならない問題だから、深く考えて、強く実行して置かなければならない」
「いかにもそうです。そうして、駒井さん、あなたの腹の中では、もうその解決の道がついているのですか」
「まだ断案までには至っていないのですが、二つの道はたしかにあります」
「それは?」
「単にこの一事件のためではない、我々の社会に、今後必ず繰返して起り来る――我々というよりも、むしろ人間生活全体にいつまでも起って、いつまでも解決しきれない問題の一つの残骸として、その根本的な手段と方法を、研究的に調べて置きたいという拙者の念願は、今日に始まったことではないのです――田山さん、ごらんなさい、私は洲崎時代から、この通り、研究論文を作りつつあるのですよ」
と言って駒井甚三郎は、書架の上から、かなり部厚な草稿を取って田山白雲の眼の前に示しました。

         六十四

 駒井甚三郎は、田山白雲の前に一冊の草稿を提示して、諄々《じゅんじゅん》として語りました――
「日本も、王朝以前は、今日から見れば乱倫と称せらるべき道徳が、公然と行われました。欧羅巴《ヨーロッパ》では今日、宗教の関係で、表面は一夫一婦ということが厳重に守られているけれど、内面は必ずしもそうではない、一夫一婦道徳に対する事実上の反逆者は、その法王をはじめ、数多いことらしい、理論上の反逆者も、拙者が知っているだけでも少ない数ではないのです」
「なるほど――毛唐は、表面なかなかやかましく言うが、裏面はヒドいそうです」
「表裏の反覆するのは、西洋に限ったことはない、到るところにあるのです、偽善というよりは、むしろ人間の通有性、弱点と見た方がいいでしょう。その弱点を覆うのに、或いはそれを向上せしむるのに、道徳を用うるということにもなるのですが、その道徳に異論が出て来る。現に、耶蘇《ヤソ》の教えで、表面一夫一婦に統制されている西洋にも、プラトーというようなエライ学者は公然、婦人の共有を唱えているのですからな」
「婦人の共有と言いますと……つまり、一夫一婦宗教なんという垣を取払って、そうして、人妻に我も恋せめ、我が妻に人も言い寄れ、ということになるのですか」
「妻というものを認めないで、婦人は男子の共有ということになる、反面から言えば、婦人側から言えば、婦人はまた男子を共有するということにもなるのです」
「そうすると、女はみな女郎なんですな、同時に男もみな男郎―
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