駒井がなお、何とか附け加えようとする時、にわかに、今までスムースな船の進行に異状が起りました。同時に船が、左右へ三つ四つ揺れたかと見ると、ただならぬ物音が、上甲板の一部に於て起ったことがわかります。

         六十六

 甲板上にあたって何か相当の異変がある、物すごい格闘でも起りつつある、そういう気配を感じたものですから、田山白雲は会議の途中で、船長室を飛び出して見ましたが、来て見ると、なんとなく穏かならぬ気配は残っているが、事件はいち早く消滅してしまっている。簡単に形《かた》がついてしまったのか、そうでなければ白雲|来《きた》ると見て、風を喰《くら》って姿を消したのか、そのことはわかりませんが、白雲は拍子抜けの体《てい》で、いささか茫然自失していると、頭の上で突然に声が起りました。
 それは、メイン・マストの上で、清澄の茂太郎が高らかに呼びかけている、
「田山先生、田山先生、よいところへおいで下さいました、只今この下で大騒動が起りました」
「何だ、どうしたのだ」
「一人の女を、三人の男が争っていたのです」
「ナニ」
「田山先生、あたいは最初からこの柱に上っていたのですから、見るつもりもなく、一切を見届けました、その顛末《てんまつ》をお話ししようと思います」
「巧者ぶりな口を利《き》かずに、真直ぐに言ってみろ、いったいどうしたというのだ」
「では、真直ぐに、見たままを言ってしまいましょう、だが、恥かしいなあ」
「何だ、何が恥かしい」
「だって、見たままを率直に言える場合と、言えない場合とがありますもの」
「相変らず生意気な言葉づかいだ」
「見たままを率直に言えないからといって、それが必ずしも不正直だとは言えない場合があります」
「何でもよいから正直に言え」
 白雲は、マストの直下まで来て、柱上の茂太郎を見上げたが、同時に、ただいま物音のけたたましかったと覚える、そのあたりを見直したけれども、多少の物品が狼藉《ろうぜき》の余波をとどめているように見て見られないことはないが、それも夜目《よめ》のことで、何とつかまえどころがあるわけではない。
 茂太郎は、いつもに似ず歯切れの悪い返答ぶりで、それ以上は口籠《くちごも》って言わんとしないのであるが、田山白雲はその間から何物かを感得したもののように、しばらく、荒涼たる名残《なご》りのそのあたりの動静を視察し、それ以上に、茂太郎の答を追求することをやめて、さっさと急ぎ足に甲板から船腹の中へ下りて行って見ました。
 まず機関室へ行って見ると、マドロスが抜からぬ面《かお》で機関を扱っている。
「タヤマ先生」
 この男が、何者よりも白雲を苦手としていることは申すまでもない。船長に対して特に敬意を表せざる場合、時として反抗心を持ち得る場合にも、白雲に対しては一も二もない、むしろ求めざるに迎合して、その甘心を得て置きたい風情《ふぜい》がある。
「マドロス君、君は、今、甲板へ出たかね」
「いいえ、のぼらないです」
「よく職場につとめていたか」
「ええ、この通り、よくつとめていたです」
「そうか」
 それ以上に白雲は追究しないで、一通り室内を注視しただけで出て行ってしまいましたが、次に訪れたのは、兵部の娘の寝室でありました。
「御免なさいよ」
 返事がない。二度目に、
「寝ていますか」
「…………」
 まだ返事がない。中から応答はなくとも、当然、船の舎監であるべき田山白雲は、適当の用意を以て、そっとドアを外から押してみました。
 ランプが点《つ》いている。その下の寝台の上に、女が一人、うつぷしに泣いている。すすり泣きをしている。髪も、衣裳も、乱れに乱れている。
「もゆるさん」
 いっこう返事はないが、すすり泣きしていることによって、寝入っているのでないことがよくわかる。白雲はそれより以上には立入らないで、その女の荒い呼吸をじっとこちらから見つめているばかりでしたが、暫くして、黙ってそこを出て行きました。
 女の寝室を出てから、白雲が戻って来たのは自分の部屋で、そこで外出用のランタンをつけ、それを提《さ》げて、改めて船内の見廻りにかかったのです。この人は、船の中での警視総監を買っている。いや、買わなくても、船長以外に於て、当然その役目を引受けなければならないのは、この人の立場でありました。
 そのランプを提げて、いちいちの船室を見舞いますと、ある者はよく熟睡しているが、ある者は眼を醒《さ》ましていて、
「御苦労さまでございます」
と挨拶をする。かくて房州から来た船大工、これは相当の年輩。機関手見習の若い者二人が寝ているところへ来て、
「君――君」
と白雲が呼び立ててみたが、二人はよくそこに寝ているが、醒めて答えようとしない。白雲はそれが当然|狸寝入《たぬきねい》りだということを知り、同時にそ
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