さい」
 猫がまたたびに身を摺《す》りつけるように、お雪ちゃんは船ばたに身悶《みもだ》えをしました。
 その時に、模糊として磨ぎ水のようになっている水面の霧の中を漂って、ほんとに微かに物の音が動いたと言って、変態に昂奮する心と、異常に澄みきった神経のお雪ちゃんが、耳を引立てました。
「あ、あなた、鐘が、鐘が鳴りました」
 今まで雄弁であった口を沈黙せしめて、しきりに耳を引立てたけれども、鐘の音なるものはもう聞えない。
「今のは、たしかに鐘の音でした。鐘の音が聞えたとすれば、もう陸が近いのです、陸でなければ島でしょう、竹生島へ近づいたのかも知れません、そうでなければ、ああ、そうそう、先生、今のはきっと三井寺の鐘なんでしょう、三井寺の鐘に違いありません、七景は霧にかくれて三井の鐘って、どなたかの発句にありました、ここは琵琶の湖の中に違いありませんから、聞える鐘も三井寺の鐘なんです、鐘の音も多いうちに、三井寺の鐘の音を聞いて死ぬなんて、ほんとに今晩は何から何まで死ぬように出来ている晩なんです、早く死にましょう、夜の明けないうちに……この世も名残《なご》り、夜も名残り、死にに行く身をたとうれば、仇《あだ》しヶ原《はら》の道の霜、一足ずつに消えて行く、夢の夢こそ哀れなれ……あの文章の気分も、今晩という今晩は、すっかりわかりました、あんな浄瑠璃《じょうるり》の中の人たちのように、切羽《せっぱ》つまったやる瀬のない気持でなく、本当にこんなに愉快を尽して死ねるのです、わたしは幸福です、この気分の醒《さ》めないうちに、死ねるようにして下さい……ねえ、あなた、こんなもの取っておしまいなさい、取って海へ投げ込んでおしまいなさい」
 お雪ちゃんは物狂わしくさせられて、竜之助の腰の脇差を、思いきって邪慳《じゃけん》に虐待してみましたが、
「でなければ、この刀で、わたしを一思いに……」
 死を誘惑する器であると見直してみると、怖《こわ》いものまでが無上に可愛ゆくなる。
「ほんとうに、水で死ねなければ、この刀で……これで、あなたの手にかかって死にたい」

         六十一

「刀は男の魂だから、虐待してはいけない」
と、この時はじめて竜之助が、物狂わしいお雪ちゃんを言葉でたしなめました。けれども今晩のお雪ちゃんは、そんなことで聞き入れるお雪ちゃんではありません。
「今となって、男の魂もないでしょう――こんなもの、海へおっぽり投げておしまいなさい」
 差していた脇差を邪慳に虐待したお雪ちゃんは、今度は傍らにさし置かれた長いのへ手をかけると、それをも邪慳に引ったくって、船べりから湖水へ向けて、まさに投げこみまじき仕草に及びました。
「それは勘弁してくれ、それはまだ捨てられない品だ」
と竜之助は、片手を殺していながら、片手をのべて、お雪ちゃんの手から、刀の鐺《こじり》をとって、おさえてしまいました。
「そうでしょう、これは、あなたにとって大切なかたみなんですからね、姉さんの心づくしでいただいた新刀第一、堀河の国広なんですから、これは惜しいでしょうよ」
と言うお雪ちゃんの言葉は、今晩に限って、たしかに物《もの》の怪《け》にとりつかれているに相違ないほど、たかぶったかんの物言いぶりです。
「よく、覚えているねえ」
と、子供をあやなすように竜之助が感心すると、
「覚えていなくってどうするものですか、その刀ゆえに、姉さんは殺されたのです、そうして、わたしもまた……」
「飛んでもないことを言う、いつどこで拙者がお雪ちゃんの姉さんを殺しました」
「江戸に近い巣鴨の庚申塚《こうしんづか》というところで、わたしの姉さんが、あなたに刺し殺されたということを夢に見ました」
「それはヒドい、夢に見たことをまことのように、なすりつけるのはヒドい」
「何がヒドいことがあるものですか、姉さんばかりじゃない、いつか一度、わたしもその刀で殺されるんじゃないかと、あの時から覚悟をきめていました、わたしだって、あなたがごらんになっているほど子供じゃありません」
「あの時とは……」
「存じません、存じません、弁信さんに聞いてごらんなさい、あなたは弁信さんを斬りそこねたから、わたしを斬ったのです、いいえ、弁信さんの身代りに、いつかわたしが殺される時があるでしょうと、あの時から覚悟をきめていると申し上げているんです」
「夢と、まことと、一緒にするのみならず、自分の頭で考えていることと、これから後の出来事とを、みんなごっちゃにしたがる、お雪ちゃんの悪い癖だ」
「でも大抵は後の出来事が、みんな最初思った通りになって行くんですもの。あなたは、いつぞやおっしゃいました、この長い方は人を斬る刀で、短いのは物を刺す脇差だ、人がましいものはこれで斬るが、女子供はこれで刺す――脇差で斬るのは畜生か、人間並みに数
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