えられないものに限る、と、わたしに教えて下すったことがございました。わたしなんぞは、とても、この長い刀で斬られるほどのねうちのある人間ではございませんから、この短い方で結構なんでございます」
と言って、お雪ちゃんは、今更のように、今まで投げるの抛《ほう》るのと言った長い刀を、竜之助の手に戻して置いて、また腰にさした脇差の方にとりついたものです。
「わたしなんぞは、とても人間並みに扱っていただけないんですから、この短いので、斬るなり、刺すなり、突くなり、存分になぶり殺しにしていただきましょう。ああ、焦《じ》れったい、こうしているうちに夜が明けたら、どうしましょう。いったい、何刻《なんどき》なんでしょう、たった今、鐘の音が一つ聞えたばっかりで、あとは聞えません、七ツの時が六ツ鳴りて……七ツにも、六ツにも、ここでは、さっぱりわかりません。まあ、さっきからこんな暗くなっているのが、今わかりました、霧の中でむせ返っていたお月様が、今度はほんとうに山の中へ落ちてしまったんでしょう、真暗くなりました。いつまでも、いつまでも、この通り真暗で夜が明けなければいいのだけれども、この世にいる限り、暮れない日というものはなく、明けない夜というものもございません、こうしているうち時が経てば、きっと夜が明けます、夜が明ければ、わたしたちは生恥をさらさなければなりません、そのくらいなら、いっそ……あなたが殺して下さらなければ、わたしの手で死にます――」
お雪ちゃんの昂奮は、まさしく狂乱の域に入って、竜之助に武者ぶりつきましたのを、竜之助は片手で軽くあしらって、
「死にたければ、水へ入らずとも、刃物を用いずとも、いくらでも死に方はあるのだ」
「どんな仕方でもよろしうございます、早く死にたい、早く死なして下さい」
「では、こういうふうにして」
片手を殺している竜之助は、一方の猿臂《えんぴ》をのべて、お雪ちゃんの背後から、咽喉部へぐっと廻して締めるしかたをする。
「あ!」
「それごらん、苦しいだろう、いよいよとなると死ぬのはいやだろう」
「いいえ、そうじゃございません、不意でしたから、少しあわてたまでです、もう驚きません、ですけれども先生、殺して下さるなら、なるべく苦しませないようにして殺して下さい」
「では……こうして、静かに、そろそろと」
「そうして下さるうちに、息がつまって来るのですか」
「そうだ――苦しいといっても一思いだ」
「一思いに、苦しませないでね」
「よしよし」
「あ、切ない」
「まだ締めやしない」
「でも、先生、こうして確かに殺して下さるんですね」
「お前が、あんまり死にたがるから」
「生殺《なまごろ》し……また息を吹き返して、二重の生恥をさらすようなことはございますまいね」
「殺す以上は、そんな未練な殺し方はしない」
「あなたは、そういう仕方で、前に人を殺した経験がお有りなさいますか」
「あるかどうか知らないが、お前の知っている限りで、あの飛騨の高山のイヤなおばさんとやらが、この手で死んだ」
「エ」
「この手で誰かに締められて、そのまま無名沼《ななしぬま》の底に沈んだ、別段、苦しがる暇もなく、安らかに、無名沼の底へ落ちて行ったが、あの婆様も、まさか殺されるとは思っていなかったろう。それと違って今晩は、殺される当人が死ぬほど所望だし、無名沼より有名な琵琶湖の真中だから、死栄《しにば》えがあるだろう」
「エ、先生、何ですって?」
「まあ、死ぬときまったら黙って……」
「いえ、あの、未練ではございませんが、もう一言」
「いや、死ぬときまったら、だまって死ぬがよい」
「…………」
お雪ちゃんは、何か言おうとしたけれども、もう口が利《き》けません、五体を劇《はげ》しくわななかせて、死にもがくように見えましたが、その力はもう及びませんでした。
六十二
目的の成否にかかわらず、三日以内には一応、船へ戻ると言伝《ことづて》をしていた田山白雲は、早くも二日目の晩に飄然《ひょうぜん》として立戻って来ました。
まず驚喜したのは清澄の茂太郎でしたけれども、再応失望せしめたのは、七兵衛親爺を、いずれのところからも同行して来た形跡のないということでした。
つまり、一石二鳥のうちの、マドロスという一鳥は見事に打ち落して、掘出し物の柳田平治を目附として首尾よくこの船へ送りつけて来てはあるが、七兵衛の行方に至っては、甚《はなは》だ手ごたえがないということの報告を聞いてみると、一同が且つは喜び、且つは憂えもしたものですが、それらに頓着がなく、ほとんど、田山の帰ることを待ち切れるか待ち切れないかの呼吸で、その夜のうちに、駒井の無名丸が月ノ浦を立ち出でてしまったのです。
大体に於て、こういう手筈ではなかったのですが、こうもあわただしい船出をしてし
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