、小舟が、するすると段の下を離れて動き出しました。
市中の濠のことですから、そう広いというわけにいかない。それを巧みに調子を取って、水のまにまに舟をやる腕前は相当に覚えのあるものです。
その舟のさばき加減を見ると、不安げに見まもっていた女の子は、はじめてホッと安心したらしく、立ち直って油単《ゆたん》をかけて置いた台のものをとると、そこに、お重があり、お銚子が待っている。この舟出を予期して置いたものに相違ない。
かくて、この小舟は、流水に任せて、もはや眠りに落ちている町の中を、ひそやかに下って行きました。下って行くにしても、その行先は知れたもの。どの流れを行こうとも、この辺の水は皆、集まるところを一つにしている。その一つになって集まるところは、すなわち琵琶湖の湖水以外のいずこでもありません。ですから、この深夜、この異様な男女二人が落ち行くさきだけはいっこう心配するがものはありません。支那の文人ならば当然、月白く、風清し、この良夜を如何《いかん》せん――というところなのでしょう。
右の小舟は一旦、町中に没しましたが、ほどなく臨湖の岸の一角に出でて下ると、湖面が、海の如く広く眼前に開けて、月が町よりも高く、天心に澄んでいるのを見ました。
「ああ、よいお月様!」
二人は、まさしく、この良夜を堪え兼ねて、水と月とを弄《もてあそ》ばんとして、夜更けに忍んで風流の舟を浮べたものに相違ないと思うが、更に見ると、良夜があまりに良夜過ぎる。男は動ぜずして水馴竿を繰っているが、女の子は、「ああ、よいお月様」と、まず天心の月に向って讃美を試みたのですが、さて湖面に甚《はなは》だ物足らないものがある。波もない、風もない、満湖の月を受けた水面は、金波銀波に思うさま戯れの場を貸しているが、それでなんだか、物足らないものがあるような気分に堪えられないで、女の子は、
「どうも、なんだか淋しいわ」
淋しいのはあたりまえである。深夜の月と水とを楽しまんために出て来たのだから、淋しいのが望むところでなければならぬ。賑《にぎ》やかなところが欲しければ、ほかにところはあるだろう。
舟がない、人の住む町村の岸に当然なければならぬ舟が、今晩に限ってない。それが一種異様な淋しい思いを増させているということが、ややあって後、女の子にもわかりました。
五十六
程よいところで、棹《さお》をとどめて、それから二人は打寛《うちくつろ》いで、充分にこの清夜を楽しむことになりました。
覆面の棹主《さおぬし》が竜之助であり、周旋する女の子がお雪ちゃんであることは、申すまでもありません。
「先生、この辺は遠浅らしうございます、舟はこのままにして置いて、おらくにおいで下さいませ」
と、お雪ちゃんに言われて竜之助は、棹をさし置き、改めてその覆面を取ってみた竜之助の面《かお》は、以前とさして変りはありません。
そうして、お雪ちゃんのすすめる座蒲団《ざぶとん》の上に坐ると、その間にお雪ちゃんは、重詰をあけ、銚子を取り出して、御持参の酒肴を並べ、
「お一つ、いかがでございます」
と言って、盃《さかずき》をさし出したものです。竜之助はそれを軽く受取って、
「静かだね」
「全く静かでございますよ、今晩はどうしたのか、舟がちっともおりません」
「舟のない湖というものは、想像してもすさまじい」
「火のない火鉢と同じように」
「だが、水入らずに楽しめてよい」
「その点は、気兼ねがなくってよろしうございます、ほんとに、お銀様には済みませんが、あなた様の御不自由なお住居《すまい》では、少しは外出《そとで》ということをなさいませんと」
「お雪ちゃんのおかげだ」
「わたしとしましても、おかげさまで気晴しができようというものでございます」
「そうさ、なにしろ拙者などは、只《ただ》でさえ不自由千万な身を、更に監禁を申し渡されているんだからやりきれない」
「どうして、お銀様という方は、あなたをちょっとも外へお出しにならないのでしょうか」
「あぶないからなんだね」
「危ないと申しましても、子供ではございません……ホ、ホ、ホ、失礼な言い方でございますが、わたしを、こちらへおよこしなさる時も、時々、お前が介抱して外へお出しなさいとは、決しておっしゃいません、決して外出させないように、とばかりおっしゃいました」
「それを、お雪ちゃんによって救われたことが嬉しい」
「でも先生、お銀様に対しては反逆でございますね」
「は、は、は」
と竜之助は、快く盃を引き、お料理を食べました。
「わたしも嬉しうございます、けれども、あとが怖いのです」
「怖いことはないよ」
「叱られますもの」
「殺されるかも知れない」
「ほんとに、殺されてもかまいません、わたしも覚悟の前でございます」
「そんなことは考えないがよい
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