くなって行くこと争うべくもない。岸と、舟とで、おのおの口を尖《とが》らせているところを聞いていると、
「越前へ、この湖を切割すれば、湖水の水はみんな海へ落ちて、その代りに汐水《しおみず》が湖水へいっぱいになる」
「従って、淡水産の魚は見る間に全滅するが、海の魚がモノになるのも絶望だ」
「そこで、多年、湖水を唯一の生命線として、一家を養っていた漁業者というものが全滅する」
「それから、また一方、湖水を宇治から山城大和の方にかけて切落してしまえば、その方へも夥《おびただ》しく湖水の水は取られることになる。従って、この琵琶湖というものは、もはや独立した湖水としての存在価値を失って、単に、北海から内海へかけての運河の一つの河幅《かわはば》として残されるに過ぎない」
「交通は盛んになるかも知れないが、その時代には、もう我々の持っているちょき[#「ちょき」に傍点]舟では物の役に立つまい、諸大名はじめ、加賀や大阪の豪商が、大船浮べて思うままに乗切るにきまっている、そうすると、従来の舟で湖上の交通をして一家を経営していた運輸業者たる我々は、当然全滅の脅威を待つばかりだ」
「すでに湖水が、運河の一部としてしか存在の価値がなくなってしまった時分には、八景めぐりの遊覧客が跡を絶つ、その観光客で維持していた我々の商売も上ったりになる」
「しかしまた、運河としての一部分の湖面だけを残して、あとの水が干上ると、そこへ当然、何万石かの田地が出来るには出来るだろう、だが、その田地は誰のものになる、それはみんな諸大名の御領分か、または御用商人の手に利権が落つるにきまっている」
「してみると、我々微弱なる湖上生活者は、全然、生活権を奪われてしまう」
「蝦夷《えぞ》の果てか、鬼界《きかい》ヶ島《しま》へでも追いやられるのが落ちだ」
流言蜚語《りゅうげんひご》でもなんでも、それが単に流言蜚語として、自分の生活に直接影響をうけずにいる限りで聞いている分には、小説を読むようなもので、人はむしろ興味を持てばといって、脅威を感じはしないが、ひとたびそれが、直接生命線に触れて来るとなると、全く人心を暗くする。
彼等はこれを、風説として受取ることができない。今は風説の時代であっても、やがては実行の時代に入るのだ、と神経を働かせないわけにはゆかない。
そこで、今晩|何時《なんどき》、どの地点に於て、相談があるから、船持と、船で働く人は、すべて湖上のどの地点に集まれという触れが廻ったのは、あの雨のしとしとと降る晩、青嵐居士《せいらんこじ》と不破《ふわ》の関守氏とが多景《たけ》の島を訪れた翌々夜のことで、その夜は月が湖上に晴れておりました。
五十五
そういうわけでありまして、その夜は、舟という舟がほとんど、某の地点に向って集合しましたので、長浜の臨湖の一帯には、舟の隻影もなく、別の世界に見るような静寂な夜景でありました。
ところが二更《にこう》の頃になって、かの加藤清正の屋敷あとといわれる浜屋の家の裏木戸があくと、そこがすでに堀になっていて、刎橋《はねばし》が上げてある、そこへ、静かに立ちあらわれた物影がある。
島田に結い上げた女の子に手を引かれて、刀を帯びた覆面の人が、静かに木戸を出て来たかと思うと、刎橋へはかからないで、濠《ほり》へ向って下りる切石畳の一段二段を踏みました。都合五段ある石段を下りつくすと、そこに潺湲《せんかん》と堀の水が流れている。その上に一隻の小舟がつながれている。
無言で少女に手を取られた覆面の人は、やはり無言で舟の中へ導かれると、手さぐりしてそこへ乗り込み、
「よろしうございますか」
女の子は、ひそかに言葉をかけると、覆面はうなずく。
「では」
と言って、男をさきに乗せて女の子は、思い切って自分もその舟に身をうつしてしまいますと共に、舳先《へさき》の方へ手をやって、形ばかりつないであったともづなを手繰《たぐ》り出しますと、最初にやっと舟へ身をうつした覆面の男が、下り立つと、急にしゃんとした形になって、
「棹《さお》を貸して下さい」
いったんともづなを手繰った手を休めて、女の子は、舟の中に横にねていた水馴棹《みなれざお》をとって、無言で男の手に持たせますと、男はそれを受取って身構えた形が、最初とは見まごうばかりであります。最初、女の子に手を引かれて裏木戸から出て来た時は、病人ででもあるらしい、たどたどしい足どりでありましたが、すでに舟に身をうつしてから、足を踏んで、棹をとった時の形は出来ておりました。
「よろしい、綱をといて下さい」
と男が、この時また低い声で、はじめて物を言いますと、女の子が、
「先生、大丈夫でございますか」
「もう、こっちのものだ、舟を出しましょう」
「では、綱を引きますよ」
「よろしい」
そうして
前へ
次へ
全92ページ中48ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
中里 介山 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング