あったかも知れないが、徳川期に至って、少なくとも元禄、享保、文政、嘉永、それから明治、大正にまで及んで相当の歴史を持っているのです。
ことに最近、嘉永年間に起ったのは、京都のある事業家が発起となって、浅野中務大輔《あさのなかつかさたいふ》がさんかし、彦根の井伊掃部頭《いいかもんのかみ》と打合せをするまでになっていた。
ここで、かりにこの工事が実現されてみるとして、湖上湖辺の民に直接に影響するところは如何《いかん》。
まず大阪と敦賀との間が、琵琶湖を通じて一つの運河となろうというのだから、通商貿易のためには計るべからざる利ということになる。
それから、もう一つは、湖水の水が浅くなるから、琵琶湖の東岸に於て、少なくとも一億六千万坪の良田が得られる――
というような点が、掘割論者の最も有力なる論拠となっている。
しかし、利益利権を挙げてもくろんでみたところ、工事となると結局難工事である。僅かに七里半とはいえ、天下の難工事であって、当時の土木力では成功が覚束《おぼつか》ないという理由の下に、いつも中止の運命となる。
だが、その中止の理由は表面のことで、裏面には次のような条件が有力に働いて、阻止《そし》せしめたのだともいう。
第一、琵琶湖の水というものは、帝都守護の要害である。あれが浅くなった日には、帝都の保障に由々しき大事である――という反対説。
それから、もう一つは、運河が出来れば、当然、淀川本流の水が減退する、そうなった日には、あの沿岸で生活している農民にとっては生命線の大問題である、というところから、寄々《よりより》の農民の間に反対運動が起った。
この二つが有力なる反対理由であって、難工事|云々《うんぬん》は中止の口実に過ぎなかったという説があります。
なお、このほかに、風光としての琵琶湖を、ほとんど致命的に没却せしめるという、保護形勝論者も出てもよかりそうなものであったが、それは出なかったらしい。琵琶湖が独立した日本無双の形勝地である資格から、一転して、単に運河の一停船所に過ぎない地点とされてしまった後のみじめ[#「みじめ」に傍点]さを、しみじみと考えるほどの余裕はなく、要害と、利害との点だけからしか反対されていなかったらしい。
しかし、すべての風景も、抽象も、国防(要害)と貿易のための犠牲物としてのほか、存在価値が認められなくなる時世が来れば、いつかは実現せらるべきほどの可能性はあり得る問題なのです。
それはさて置き、この際、右の運河説が、人心を聳動《しょうどう》したのです。摂津、河内の農民は大挙して、その風聞の実現せざらんことを、歎願の名で湖辺の大名へ向って上申のために上って来たという。一方また、湖水が干上るために、己《おの》が生活権が脅威せらるるという湖上の運輸業者と、漁民が動揺をはじめたのです。ところで、これより以前、検地の不平のために団体運動を続けて、それぞれに屯《たむろ》して待機している農民たちの同勢と合流しない限りもあるまい。
すでに、それが合流した以上になると、その動揺の程度が、水陸両面にわたって展開されることになる、そうなっては逃《のが》れる道がない。まず当面の安全のために、旅籠《はたご》は旅客を処分して、一時応急の避難をさせてからともかくも、という段取りは、しかるべきものでした。
五十四
暫くあって、人心が落着いてみると、この風説には、右のような根拠がないではなかったが、それもこの際、急速に実行につくというような形跡は全くなく、且つまた、摂河泉の農民が大挙して、切割の中止歎願に来るというような事実は、跡かたもない風説だということがよくわかりました。
従って、昨今暴動の形跡ある農民一揆《のうみんいっき》と合流するなんぞということのおそれは、全く解消してしまったし、農民連もまた、それを機会に示威運動を盛り返そうというほどの熱心もなし、事実は、この時、すでに農民運動は、表面的鎮静に帰してしまったといってよろしい状態に置かれてありました。
そこで、真先に警戒した街道筋の人気から、まず鎮まって、暫くの間に鎮静に帰したのですけれども、その風説の及ぼす波動というものは、一応、響くだけ響かないと消えないものでして、大津、草津、膳所、彦根の人心が落着いた時分になって、長浜から北国筋が、盛んにさわぎ出してまいりました。
ことに、この方面は、上述のような開拓が行われた日には、直接に最も影響を受けることの多い土地ですから、日本海の方へすんなりと抜けてしまうまでには、風説が根を持とうとしている。
まず湖上の運輸業者が、この風説をしかと喰いとめ、それが漁民たちの思惑とがっしり[#「がっしり」に傍点]結びついて、彼等の面上には、いずれも生命線とぴったりした不安の色が、みるみる濃
前へ
次へ
全92ページ中47ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
中里 介山 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング