かなり有力なる根拠があるのですが、まずその前に、如何様《いかよう》に人心が動揺し出したかという径路から略叙しなければならぬ。
 草津の辻の評判の晒《さら》しが、一夜で消えてしまった以後、そのあとへ豊臣太閤の木首が転がり込んだその前後、大津の宿では道庵先生が、がんりき[#「がんりき」に傍点]の百の面《かお》を逆さに撫で上げようとする途端――お角親方は、伊太夫大尽の宿へ取って返して、目的の晒しが消滅してしまって、自分の力瘤《ちからこぶ》も抜けてしまったが、同時にその納まりが、どうなっているかという心配の下に、相談を進めている前後、青嵐居士と、不破の関守氏とが、多景《たけ》の無人島へ農奴を連れ込んで、弁信法師の饒舌《じょうぜつ》に辟易《へきえき》している前後のこと――でありました。
 大津でも、草津でも、彦根でも、民間が動揺して――動揺は今にはじまったことではないが、それは農民に限ったものでしたが、今度は住民が、ことに客商売のものから最も騒ぎ立ちました。
「お立ちでございますか、道中、御大切に、お船で――湖上へお出ましがよろしうございましょう、まことに恐れ入りますが暫時のところ、どうぞ、お立退き、御避難が願いたいものでございます、万一のことがございましては、いえなに、エッソ、ゴウソだそうでございます、いえなに、ちょうさん[#「ちょうさん」に傍点]がこの国へ向って、山城、大和の方から、なだれ込んで来るのだそうでございまして」
 かくして、大津も、草津も、彦根も、旅宿という旅宿の番頭が、テンテコ舞をして、泊り泊りの客人に挨拶をしてまいりました。
「何だね、どうしたんだね、急に」
「はい、エッソ、ゴウソだそうでございまして、まことにお気の毒さまでございますが」
「エッソ、ゴウソというのは何だい」
「ええ、そのちょうさん[#「ちょうさん」に傍点]が、今度はこの国へなだれ込むんだそうでございまして、今までのは、この国からちょうさん[#「ちょうさん」に傍点]が他の国へ走ろうといたしたのでございましたが、今度は山城、大和方面からちょうさん[#「ちょうさん」に傍点]が、この国へ流れ込もうというわけで、宇治、勢多、一口《いもあらい》の方まで参っているそうでございますから、万一のお怪我がございましては……」
「そうかね、何だって、エッソ、ゴウソや、ちょうさん[#「ちょうさん」に傍点]なんぞが、そんなに流れ込みやがるんだ」
 エッソ、ゴウソとは何だか、ちょうさん[#「ちょうさん」に傍点]とは何を意味するか、促す方も、促される方もその観念の明瞭でないうちに、一方は追い立てるように、一方は追い立てられるように、まず旅宿という旅宿から警戒が起ってしまいました。
「実は、今に始まった風説ではございませんが、この琵琶湖の湖水が干上ってしまうということで、急に騒ぎが起りました。今までは湖辺の百姓たちが、検地のことから騒ぎ出しましたのでございますが、今度はまるっきり趣が変って、湖上の人たちが騒ぎ出しましたのでございまして、舟稼業だの、漁師だの、水によって生活する人たちが騒ぎ出したのでございます。その騒ぎ出した原因と申しまするのは、山城、大和の方から大挙してちょうさん[#「ちょうさん」に傍点]がこちらへ向ってやって来たという風聞から起り出したのでございました。では山城、大和の人たちが、なぜ、ちょうさん[#「ちょうさん」に傍点]してこちらへ向って大挙して来るかと申しますると、琵琶湖が干上ると共に、淀川の水が涸《か》れてしまって、何百万石かの田地が仕附かなくなる、それがために天領、大津、彦根、膳所《ぜぜ》その他のお係りへ歎願に参ったそうでございます」
 旅籠《はたご》の主人が、更に説明を加えたところによって、事件の輪郭はやや明瞭になったが、その内容に至っては、また茫漠としてつかまえどころがない。

         五十三

 琵琶湖の水が全部干上るという風聞は、いかに人心恟々《じんしんきょうきょう》たる幕末の時代とはいえ、そう容易《たやす》く末梢神経を刺激すべきものではないはずなのが、この際、かくも人心を騒がしているには、必ずしも根拠がないとはいえない、否、大いにこれがあるのです。
 琵琶湖の水を切り開いて、越前の敦賀へ落すという計画は、必ずしも空想ではなく、実現に近い可能性があってのことで――いや、すでに実現に着手されようとしたことも再々ある。
 そもそも琵琶湖の水を越前の海へ落すには、僅かに七里半の工事で足りる。
 僅かとは言うけれども、機械工業の発達しない旧幕府時代に於ては、空想に近いほどの大工事には相違ないが、要するに距離は七里半に過ぎないということが、専《もっぱ》ら湖上湖辺の常識となっている。この七里半を切り開こうという計画は、すでに徳川の初期、徳川幕府以前にも
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