あの人たちは、そう安々と、立ちのき料をいくらいくらやるから、ここよりも、ずっと住みよい地面を十層倍も上げるから、と言って聞かせたところで、このお墓の地を離れて行く気には決してなれないものと、わたしはあの時に見て取ってしまいましたのよ」
「なるほどな、それも一理窟だ」
「いいえ、理窟じゃありません、理窟から言えばわからない話じゃありませんか、相当の立ちのき料を上げて、相当の換地もやるから立てと、地頭から言われた日には、足もとの明るいうちに、なるたけたくさんのお宝と、利分のある土地をもらって、移ってしまうのが当世のわかった理窟なんでしょう、ところで、あの人たちには、そういう理窟が通用しないから因縁《いんねん》です、つまり、人情に生きて行こうというものです」
「人情というよりも、歴史だな、歴史に生きて行こうというのだな」
「何でもよろしうございます、わたしは、この人情ずくがよろしいと思います」
「しかし、どのみち立ちのくものであったら、がんばるのは愚《ぐ》だな」
「そりゃ、馬鹿ですね、ですけれども、馬鹿がその人間の世からなくなってしまったら、人間の世はもうおしまいでしょう」
「どうして」
「どうしてたって、あなた、これはこの谷底のたれも知らない、ちっぽけな村のことなんですけれども、これを大きくとって見たらどう、たとえば、いま申し上げた平家の例にとって見たらどう、一族がみんな水の底へ沈むようなばかな真似《まね》をしないで、源氏に降参すれば、どこかの土地に安楽に生きて行かれるとしても、それに降参して生きたくないというところに、大和魂《やまとだましい》があるんじゃなくて?」
「大和魂と来たな」
「大和魂でなくってどうなの、もし、もっと大きく、日本の国と唐《から》の国と戦《いくさ》をしたとしてごらんなさい、唐の国がいくら強くて、日本がたとえ敗けそうになった時でも、この土地をよこせ、そうすればお前にはもっと広い、住みよい土地をやるから、足もとの明るいうちに立ちのけと言われても、日本人として、はい、それならばよい土地と、立退料を、たんまり下さい、そうすれば、どこへでも行きます、というようになったら、もうおしまいじゃないの」
「それは少したとえが大仰《おおぎょう》だ」
「大仰だかなんだか存じませんが、先祖の土地が立去れない、他国の土地に移り住むよりは、先祖のお墓を抱いて死にたいという、あの人たちの心意気が、わたしは嬉しいわ、それが大和魂というものじゃなくって?」
「いずれにしても、あの村の人たちの運命は見物《みもの》だ、どうなることか、わしも、旅でなければ見きわめて行きたい気持にさせられる」
兵馬は、この女から思わざる論理を聞かされて、改めて谷村を見おろし見直していると、女がまた言う、
「越前の敦賀港《つるがみなと》の沖へ乗り出すと、大昔、地震のために辷《すべ》り込んだ一村が、そっくり、山も、森も、林も、そのままで海の底に落着いているそうですね、天気の大へんによい日、どうかすると舟の上から、その村の家と、人が、そのまま沈んで見えることがあるそうです。幾年かの後、この村もそうなるんでしょう、舟で渡る、後生《ごしょう》のいい人だけが、沈んだ村の相《すがた》を舟の上から水底に見る――てなことになるんでしょう、お気の毒な運命ですけれど、美しい大和魂が、わたしは嬉しいわ」
女は、しきりに大和魂を述べ立てるのが、兵馬にはおかしい。おかしいけれども、どこにか笑えないものがある。
五十二
この山間では、谷一つ、村一つが、数百年の歴史と共に、水底に没し去らんとして村人を悲しませているが、他の一方では、一つの湖水が全部|干上《ひあが》ってしまうという臆説のために、人民が動揺をはじめました。
前のは、何を言うにも、飛騨の山奥の谷底の一村、しかも、誰も知らない村、たまたま知っている者は、畜生谷なんぞと人外境のように呼びかけて辱《はずか》しめている村、全村あげて悲しむとも、それに同情する者は、たまたま通りがかりの宇津木兵馬と、連れの芸者の福松ぐらいのものでありますが、一方、湖水が干上るということの危惧の下《もと》に動揺をはじめたのは、その事柄も、及ぼす影響も、無比のものでありました。
それは全く比較にはならない。日本第一の大湖、近江の琵琶湖の湖水が全く干上ってしまうという風聞が捲き起って、湖上湖辺の人心をおびえあがらせてしまっているのです。たとえ流言蜚語《りゅうげんひご》にしてからが、そんなばかばかしい問題が起るべきはずのものではない。よし、また起ったにしたところで、一笑に附し去るべき程度のものだと排斥するのは、歴史と、実際と、人心の機微とを知らないものの言うことでした。琵琶湖の水が干上ってしまうという風説の根拠には、決して荒唐無稽ならぬ、
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