っていないだろうが、世を忍ぶ道行なんぞとは考えていないらしい。極めて晴々しい顔色で、春の野原を心ゆくばかり羽を伸《の》して舞いあるく胡蝶のような足どりで、兵馬を導いて行く気どり方だけはよくわかる。
 名にし負う飛騨から越中への難路などは全く打忘れて、前途のことに屈托がないのみならず、この旅路が一寸一刻も長かれかしと、引っぱって行くような気分さえ見えるのです。そうして事に触れ、物に触れては、味な話を持ち出して、兵馬をからかったり、もたれかかったり――兵馬にとっては、この女の物語が、アラビアン・ナイトであったり、デカメロンであったりする。その現在と刹那《せつな》だけに生きて楽しんで行けるこの女の足もとを見ると、さてさて女というものは図々しいものだ、途方もない度胸のあるものだ、ということを兵馬が、別方面から見て呆《あき》れざるを得なかったのです。
 くだんの村を横断しきって、やがて次の谷に至るべく峠路の上に出た時、女はおきまりの、そこでホッと息をついて、同時に兵馬の足を抑留する。しばらくして、
「この村がすっかり池になったら、景色がよくなるでしょうね」
と、しげしげと、いま越え来《きた》った谷村一面を見おろして、女が言いますと、兵馬は、
「景色はよくなるかも知れないが、人間はかわいそうだよ」
「そうねえ、谷がいっぱいに水になった日には、景色はよくなっても、人間は生きて行かれませんねえ」
「それを思うと気の毒だよ」
「いよいよ池になる時は、あの人たちはどうするでしょうね」
「そりゃ、他所《よそ》へ移り住むよりほかはあるまいじゃないか」
「いいえ、わたしは、そうは思いません」
「どう思う?」
「あの人たちは、この谷が水になっても、この土地を去らないだろうと思います」
「ホホウ、それじゃ水の中へ住むか」
「ええ、わたしは、きっとあの人たちは土地を去らないで、水の中をすみかとするでしょうと思います」
「してみると、舟でも浮べて水上生活というのをでもやるか、そうでなければ、人間が魚になるんだな」
「そんなんじゃありません、あの人たちは、どうしても故郷を立去る気になれないんです」
「そりゃ、人情はその通りだが、すでに谷が水になるときまったら、いつまでもああしてはいられまい」
「ところが、あの人たちは、あの墓を抱いて、村と共に水に沈む覚悟をきめてしまっているように、わたしには見えてなりませんでした」
「ばかな、そんなことがあるものか、一時は名残《なご》りを惜しむのも人情だが、いよいよの時にああしておれるものかな」
「ところが、これはもちろん、わたしの心持だけなんですが、あの人たちは、あれは、たしかにお墓と心中するつもりなんですよ、心持は面《かお》つきにあらわれるものです」
「ふーむ、君の眼ではそう見えたかな」
「見えましたとも、動きませんよ、あの人たちは、ああして、いよいよ水の来るまでお墓を離れない決心だと、わたしは見極めてしまいました」
「そんなことがあるものか、一時の哀惜と永久の利害とは、また別問題だからな、そうしているうちに、相当の換地が与えられて、第二の故郷に移り住むにきまっているよ」
「それは駄目です、あなた」
「どうして」
「あなたという方には、故郷の観念がお有りになりません」
「ないこともない」
「有りませんね、あなたは、早く故郷というものを離れておいでになったのでしょう、ですから、故郷というものの本当の味がおわかりになりません。たとえ、故郷に十倍のよい地面を与えられたからといって、欲得ずくでは故郷を離れる気になれるものではございませんよ。わたしのように、旅から旅を稼《かせ》いでいる身になってみると、その心持がよくわかります。あの人たちは、たとえどんな住みよい土地が与えられたからと申しましても、それへ行く気にはなれない人たちですから、結局、お墓を抱いて水の底に葬られて行くのです。それにあなた、あの人たちは平家の落人《おちうど》の流れだというではありませんか」

         五十一

「平家の落人《おちうど》の流れだから、どうしたというのだ」
「そこですよ、あなた、平家は源氏と違って、人情の一族だということを御存じになりません?」
「うむ」
「平家は一族盛んな時には栄燿栄華を極めましたけれど、亡びた時は、一族みんな一緒でした、そこへ行くと源氏は、父を殺したり、叔父を殺したり、兄弟が攻め合ったり、殺し合ったり」
「なるほどな」
「感心して聞いていらっしゃるわね。あなたより、わたしの方が学者なんです、耳学問が肥えていますから――ところで、その平家の一族は、源氏に追いつめられて、もはや地上では生きられないから、一族がみんな水の底に……御存じでしょう?」
「知っている」
「平家というお家柄は、みんな、そうした人情に厚いんです、ですから、
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