。ああ、久しぶりで酒がうまい、風景は見えないけれども、気が浮いてきた」
「狭いところにいるのと、広いところへ出たのでは、ただそれだけでも人の心持が違って参ります、白骨の山の中を出て、琵琶湖の舟の中で、あなたとお月見をしようとは思いませんでした」
「ああ、今晩の酒は久しぶりで旨《うま》い」
「この辺は、上方《かみがた》に近うございますから、お酒はよいそうでございます」
「お雪ちゃん、冷えてはいけないよ、湖の夜風に風邪をひかしては、拙者が申しわけがない」
「たれに申しわけがないのでございます、もし、わたしに風邪をひかせたと致しますと、先生は、どなたに申しわけをなさるのですか」
「は、は、久しぶりにまたお雪ちゃんの論法がはじまり出した、誰に申しわけということもないが、あたら若い娘に風邪をひかせては毒だ」
「若い娘に限ったことではありません、どなただって風邪をひいては毒でございます。先生、あなたこそ、人の身のことなぞは御心配なさらずに、御自分がお風邪を召してはいけませんよ、あなたに風邪をお引かせ申してごらんなさい、それこそ、わたしが、お嬢様に申しわけがございません、あなた、これをかけていらっしゃい」
お雪ちゃんは、かねて用意の丹前をとって、竜之助のうしろから羽織らせる。
「飛騨の宮川で火事に逢った時も、少しばかり、お雪ちゃんと船住まいをした覚えがある、あの時のせせこましい思いと違って、ほんとに今晩は気が晴れる」
「そうでございましょうとも、高山の宮川と、近江の琵琶湖では、比較になりません」
「ああ、酒も旨いし、気も晴れる、今晩はいい晩だな。濠《ほり》を下って来る間は、小面倒であったが、ここへ来て全く大海へ出た気持になった」
と言って、竜之助は二はい三ばいとひっかけるものですから、お雪ちゃんが無性《むしょう》に嬉しくなりました。
五十七
最初は、周囲の情景に一抹《いちまつ》の淋しさを感じたのが、ここに至って、対人的にお雪ちゃんは、全く嬉しくさせられてしまいました。
誰にしても、自分のもてなしが人を喜ばすことを見れば、自らもそれを喜ばぬ人はない。特に、今晩のお雪ちゃんは、相手の鬱屈を見兼ねて、自分の独断で、外出禁制の人を、こちらがそそのかして、遊山に連れ出したようなものですから、お雪ちゃんとしては、お銀様を向うに廻しての一大冒険のようなものでしたが、その冒険が功を奏して、御当人をかくまで満足せしめたかと思うと、そのことの喜びで、すべてが忘れられてしまって、この人を喜ばせ、自分も喜びをわかつためには夜もすがら、遊び明かしても悔いないというほどの心持にさせられてしまいました。
「今まで、お酒がおいしいの、気ばらしになったのとおっしゃったことのないあなたから、そうおっしゃられると、わたしは、もうこれより上の本望はございません。ねえ、先生、今晩は、ここで夜明けまででもかまいませんから、昔話を致しましょうよ」
「望むところだよ」
「昔話と言ったって、そう古いことではありません、白骨以来、ほんとうに落着いて、先生からお話を伺う機会も与えられませんでしたし、わたしもなかなかに機会に恵まれませんでした。お目にかかれないのではないのですが、お銀様という方が背後にいらっしゃると思うと、わたしは怖くなって、先生が、わたしの人じゃない、口を利《き》いては悪い他人のようにばっかり思われる心持になって、ほんとに気が引けてなりませんでしたが、今晩はさらりと、わたしもその心配が取れてしまいました。ねえ、先生、それから後の話をして聞かせて下さいな」
「お雪ちゃん、お前から話してごらんなさい」
「では、わたしから昔話をはじめましょう。ねえ、先生、あなたとわたしと二人は、どうして、信州の白骨なんて、あんな山の奥へ行かなければならなかったでしょう」
「病気保養のためだな」
「誰の病気保養のためなんでしょう」
「この眼だ――」
「いいえ、そればっかりじゃありません」
「では、ほかにも病人があったのか」
「ありましたとも」
「それは誰で、何の病気だ」
「先生よりも、わたしの方が病人だ、なんて言う人があるのですから、いやになってしまいました」
「お雪ちゃんが病気、今宵も、そんなにぴんぴんしているお雪ちゃんが」
「ええ、誰が、そんな噂《うわさ》をするのですか、わたし、ほんとうに怖いようですわ」
「どんな噂をしたんだね」
「ねえ、白骨の温泉へ行ったのは、あなたのお眼の療治ということも、目的の一つであったには相違ないですけれど、もう一つは、わたしの病気を直したいためのかこつけだなんて、悪口を言う人があるそうですから、いやになってしまいますわ」
「お雪ちゃんに何の病気があって?」
「何の病気って、先生……きまりが悪いわ」
お雪ちゃんはポッと面《かお》を赤くしなが
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