ではないということの根本の事実と、実際とを教えて上げなければなりますまい。末世に於きましては、事実上、正当の地位がみな置き換えられてしまっているのでございます。それは最初のうちに、国を治める人が方便のためにしたことが、後日はその方便が方便の仮借《かしゃく》から離れて、そのことそのものに、われとつけてしまった箔《はく》のために、われと迷うているのでございます。たとえばこの世の位階勲等の如きは、最初は、帝王の宏大なる政治心から、人間待遇の道として開かれたものでございまして、人が偉いから、おのずからそのかがやきが発せられたものなんでございまして、後代に到りますと、人間がつまらないのに、箔だけがかがやくものでございますから、知恵の浅い多数の者が、その中身を見ないで、箔だけを拝むようになりました。位階勲等ばかりではございません、人間の原始の生活には、富というものはございませんでした、また、正当な生活をやっておりさえ致しますと、富というものの蓄積も、使用も、さのみ効用がないものなのでございます。然《しか》るに末世になりまして、人間がおのおの生活のために戦うようになりますと、富の蓄積が即ち生命の蓄積と同じような貴重なものになりまして、同時に人間そのものの生命を尊重するよりは、生命のために蓄積した富そのものを拝むように間違って参りました。富があれば、安楽にして一生が暮せる、富がなければ、一生を牛馬の如く苦労して暮らさなければならぬ、一歩あやまてば餓えて死ななければならぬ、その恐怖のために万人がおののいて、みすみす罪におちておりますが、私から言わせますと、このくらい違った迷信はないものと存じまする。他人の膏血《こうけつ》による富を積んで、己《おの》れが安楽に暮さんとする、その安楽が、世の人の考える如く安楽なものでございましょうか、汗を流して終日働く人たちのみが、世の人の考えるほど不幸なものであり、労苦なものでございましょうか。この観念を、今の人は、よく見直すことに出直さなければならないのではないですか。位階勲等の高きもの、身分格式の卑しいもの、働かないものが幸福で働くものが不仕合せ、ただ単にそれだけで或いは誇り、或いは憂えるということがあんまり浅はかに過ぎます。本当の幸福は、世のいわゆる、見て以て高しとするところになく、見て以て低しとするところに存在するのではございますまいか。且つまた、本当の安楽は、世の見て以て逸《いつ》とするところに存在せずして、見て以て労《ろう》とするところに存在するのではございますまいか。御存じでございましょう、佐藤一斎先生が太公望をお詠《よ》みになった詩の中に、『一竿ノ風月、心ト違《たが》フ』という句がございます、その前句は多分、『誤ツテ文王ニ載セ得テ帰ラル』とかございました、私の記憶と解釈が誤っておりましたらば御免下さいませ、あれは、太公望が釣をしているところを、周の文王に見出されて天下の宰相となりました、普通の眼で見ますると、これより以上の出世はないのでございまして、世間の光栄と羨望の頂上でございますが、太公望御自身から申しますると、大へんにこれは間違っている、自分の本当の楽しみは、一竿の風月にあって、天下の宰相になることではない、それを見出されてしまったのは時の不祥である、という心持を、さすがに佐藤一斎先生がお詠みになりました。それは負け惜しみでも、似非風流《えせふうりゅう》でもございません、太公望様それ自身の本心なのでございます、楽しめば一竿の風月の中に不尽の楽しみがある、それよりほかの物は結局|煩《わずら》いに過ぎない、という太公望の心境を、さすがに佐藤一斎先生がお詠みになりました。それからまた、三国の時代の有名な諸葛孔明《しょかつこうめい》でございますが、御承知の通り、諸葛孔明様の有名な出師《すいし》の表《ひょう》の中に、『臣モト布衣《ほい》、躬《みづか》ラ南陽ニ耕シ、苟《いやしく》モ生命ヲ乱世ニ全ウシテ聞達《ぶんたつ》ヲ諸侯ニ求メズ』というの句がございます、聞達を諸侯に求めずという、この求めざるの心が、あえて諸侯に向って求めざる所以《ゆえん》に限ったものではございません、何者に対しましても求めざるの心があって、はじめて心が乱れませぬ、心が乱れませぬ故に、いつも平和でございます、何者が参りましてもこれに加えることができませんし、またこれに減ずることもできないのでございます。古語に『自ラ求メザルモノニ向ツテハ哀楽ソノ前ニ施スべカラズ』というのがございます、世にこの求めざるの心ほど強いものはございません。諸葛孔明《しょかつこうめい》は最初からこの最も強い地位に坐しておいでになりました、その求めざるの心が安定いたしておりましたのは、それだけ修養が積んでおりましたのですが、一方から物質的に見てみますると、あの『躬《
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