しいということには、未《いま》だ全く御理解がないようでございます。この世の中に存在するいろいろの仕事のうちで、農がいちばん正しい職業でございます。こう申しますると、他のあらゆる職業はみな正しからざる仕事かとお尋ねになるかも知れませんが、左様ではございません、まず原始的という意味で申し上げますると、第一、何物よりも農が正しい仕事なのでございます。農は天下の大本と仰せになりました通り、百姓こそは、土を母として、その恵みの上に、作物を育てて人間を養う仕事でございますから、先以《まずもっ》て、人間の仕事で、これより最初の、これより正しい仕事はないと言ってもよろしうございます。正しい仕事は自然、貴ばれなければならないのです。自然、農というものが、最も正しい仕事でございますから、当然最も貴い仕事だということになるのでございます……まあ、お待ち下さい、あなた方は、ならばその貴い仕事が、ナゼ、今日のように貴ばれない、貴ばれないのみではない、ナゼ、今日のように卑しまれている――と御反問になろうとしていらっしゃる。まことに一応、御無理のない御反問でございますが、貴ばるべき仕事が貴ばれざるに至りましたのを、あなた方は、搾取する者の責めにのみごらんになるようでございますが、なるほど、それも一応の見方には相違ございません、悪い地主なり、悪い代官なりが存在いたしまして、罪もない、おとなしい百姓を苛《いじ》めさいなんでこれを搾《しぼ》り、これを使い、これを奴隷以下におとしめるといった現象を、私共もしらないというのではございません、そこは、あなた方の御論拠に充分の理解を持っているつもりでございますが、その責めを、単にそれだけに帰《き》して、他を怨《うら》むことばかりを教えるのはよろしくございません。それは片手落ちというもので、そういう方面ばかりを考えて、地主が悪い、代官が憎いという、治者に対する被治者の反抗心だけを教えるような論理はいけないと思います。そうして得るところのものは何かと申しますと、それは必ず得るところのものより、失うところが多いものでございます。百姓一揆というものに払われました大きな犠牲を翻って、お百姓たち自身の正しい立場を自覚させることに尽しましたならば……いや、あなた方は、それでも御不満でいらっしゃる、生活が切羽詰《せっぱつま》っているものに、正しい自覚のなんのと、そんな緩慢な沙汰《さた》ではない、とこう考えていらっしゃると存じますが、それを、もう一歩進んで考えていただきとうございます。私とても、現在の農民生活がこれでよろしい、これでお前たちには充分だ、これより生き過ぎてはお前たちの分に過ぎる、と申したくはございません、どうかして、もう少しお百姓の生活を楽にして上げたいものだと思わないことはございませんが、それより先に教えて上げていただきたいことは、苦しいだけが農民のつとめではない、ただいま私も申しました通り、百姓ほど正しい仕事はない、百姓ほど貴い仕事はない――ということの観念を昔に戻して、農民たちによくよくさとらせることが急務ではないかと考えているのでございます。さあさあまた、あなた方は、なあに盲法師の小坊主が途方もない減らず口、自分の立場を苦しくないと考えようにも、貴いと考えさせようにも、現在この通り苦しい、この通り卑しめられている、現在それを頭だけ引離して、考えてみること、考えさせてみることが、どうしてできる――と、かようにおさげすみになっていらっしゃるでございましょうが、そこが、私の頭の違うところでございまして、とにかく、一応お聞取りを願いたいのでございます」

         四十二

 弁信法師は引きつづき、滔々《とうとう》と喋《しゃべ》りまくりました――
「これは、ひとり農民に限ったことはございません、すべての人に伝えなければならぬ観念なのでございますが、ことに農民から始めて、誤った貴賤貧富の観念をすっかり改めてやらなければなりません。貴賤貧富の観念を改めると申しましても、悪平等に堕せよと教えるのではございません、君は君とし、親は親とし、人倫はおのおの尊重し合わなければなりません、それは古《いにし》えよりの道でございます、その正しい倫理観念に反逆をそそるような教え方はいけません。中世以降、この世界をすべて麻痺《まひ》せしめてしまっておりますところの、貴賤上下の観念だけはすっかり取払ってやって、万事はそれからのことなんでございます。後代の貴賤上下の観念は、人間本質の輝きではございませんで、その輝きを没却するところの手段方法に供せられた点が夥《おびただ》しいのでございます。そのために、世界の見て以て卑しとするものが、必ずしも卑しからず、俗界の見て以て貴しとすることが、必ずしも貴からず、貧が必ずしも辛《つら》からず、富が必ずしも楽
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