的に見ていられないほどですが、さむらい[#「さむらい」に傍点]の方も、徳川家をはじめ大小諸侯の内輪がみな火の車です、惨憺たるものです。然るに商人に至っては……彼等は、血を以て天下の泰平を保証したという歴史を持たない、身を以て苦労して衣食を供するという奉仕もしない、その間の鞘《さや》を取ることによって、すべての富を蓄積し、その富の威力で、兵をも農をも支配せんとする、仁義道徳がすたり、銭によって支配されんとする時代がやがて来るのです、否、すでに来つつあるのです」
「お話を伺っておりますうちに、わたくしは大へん悲しくなりました」
 そこへ、抜からぬ面《かお》で、突然に口をさしはさんだのは弁信法師でありました。
 談論|酣《たけな》わなる両浪人は、この差出口にいたく驚かされました。今まで全然、存在を認めていなかったわけではないが、談論の相手としては眼中に入れて置かなかった人の突然の発言ですから、二人は特に驚かされたのでした。取上げることをしなかった第三者が、ここに至って、さも心得顔に差出口を挿んだことによって、この席に、こんな小法師が侍《はんべ》っていたのかということに気がつき、改めて見直すと、今までの二人の会話を、最も熱心忠実に傾聴していたことを思わせる存在ぶりでありましたから、二たび、三たび、驚異の感に打たれざるを得ませんでした。同時にまた、「油断がならぬ」というような警戒心もこの時に、頭をもたげたようです。本来、この二人は、ここに存在せしめられている盲小法師なるものに就いて、なんら、特別の予備知識を与えられてはいなかったのです。ここへ伴い来《きた》った晒《さら》し者《もの》のグロテスクによって、この島にかかる人物が存在することを知り、これこそ、しばしの身を托するに安全のところと心づいただけの発起で、ここまで伴い来ったものでしょう。この小法師が、変った修行者であるということだけの黙会はあったものでしょう。しかし、そのほかには、なんらの予備知識がない上に、右にいうような漠然たる先入感から、およそ浮世のこととはかけ離れた修行者であり、しかも充分に不具者の資格を備えた存在物を、この孤島の中で前に置いての談論ですから、言論は絶体的に自由であることを安心しきって、談論が縦横に酣《たけな》わなるに任せて行く途中、ここで、抜からぬ面で差出口をされたものですから、驚くのも無理はありません。
 もし、この二人は多少なりとも予備知識があって、ここに存在する小物体が、怖るべき感覚の所有者であり、また更に怖るべき饒舌家《じょうぜつか》であることを知ったならば、二人とも、かくまで羽目を外《はず》して時事を痛論するようなことはなかったでしょう。もしありとしても、必ずや、この小存在物をあらかじめ眼中に置いて、談論の一節一節の終りと始めとには、「わたしたちはこう思うが、弁信さんはどう思います」と一口ぐらいは挨拶があり、会釈《えしゃく》があって然るべきはずだったでしょう。それをそうしなかったことを悔ゆるまでもなく、二人はただ驚きの上に、呆《あき》れて、
「弁信さん、何が悲しいのだ」
とダメを押したに過ぎません。
「何が悲しいとおっしゃいましても、人間が人間同士、理解し合えぬほど悲しいことはございません」
「エ、エ、何ですって」
と二人は、また驚異と疑惑とを以て、弁信法師の面を見直しました。
「人間が人間を理解し合えぬほど、悲しいことはございません、人間が人間同士、理解し合えなければこそ、人間の団体が、おのおのその団体を理解することができないのでございます、さむらいがお百姓を理解することができないのが悲しいです、お百姓がさむらいを理解することのできないのも悲しいです、士農は工商を理解することができず、工商は士農を理解することができないといたしましたならば、四海のうち、四民の間、どこに共存共栄の地がございましょう……」
 さてこそ、怖るべき饒舌が、これから始まるらしい。

         四十一

 一息にこれだけのことを言い切られて、さしも二人の浪人が、
「うーん」
と唸《うな》りました。しかし、実はまだ唸るのには早かったのです。この辺で唸り出してしまった日には、この小坊主の底の知れないお喋《しゃべ》りの腹蔵のやっと戸口のところへ来て、眼を廻してしまったようなものなのです。前に言う通り、皆目《かいもく》、お喋り坊主のお喋りぶりのいかに怖るべきかということに予備知識を持たなかった二人としては、まずこの辺で驚いてしまうのも無理のないものがあります。一方、弁信法師に於ては、ここでようやく持病の堰《せき》を切って、弁論の滝を放流しはじめました――
「たとえばです、あなた方は、農が苦しいという立場だけは、充分御理解になっていらっしゃるようですが、農が正しいということ、農が楽
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