みづか》ラ南陽ニ耕シ』と仰せられた通り、諸葛孔明は自分で百姓をしておいでになりましたから、それで生活の分が足りておいでになりました、百姓を致して天地から生活の資料を直接に恵まれておいでになりましたから、生活のために何物を以て加えられても決して動揺を致しませぬ。諸葛孔明様は古今の名宰相でございますが、百姓として立派なお百姓でございました。諸葛孔明は蜀《しょく》の玄徳のために立たれるまでは、南陽というところで、みずから鋤鍬《すきくわ》を取って百姓をしておいでになりましたのです。どのくらいの石高のお百姓でしたか、私にはよくわかりませんが、出廬《しゅつろ》以前のお百姓と致しましては、おそらくやっと食べて行かれるだけの水呑百姓の程度を遠く出でなかった百姓であったろうことを想像いたされるのでございます。孔明は幼にして父母を失われ、相当に苦労をなされたそうでございますから、そう大した資産が残されておりましたとも覚えません、少なくとも農奴を使用して、自分が手をふところにしておる地主様ではございませんでした、みずからたがやして働くところの一農夫でありましたに相違ございません、『躬ラ南陽ニ耕シ』とある、『躬耕《きゅうこう》』の文字がその事実を証明いたします。後に蜀の丞相《じょうしょう》の位に登りましてから、上表の文章の中に、『自分には成都に桑八百株|薄田《はくでん》十五|頃《けい》があるから子孫の生活には困らせない用意は出来ており、官から一物をも与えられなくとも生活が保証されておりまする』ということが書いてございます。桑八百株と申しますと一坪に二株ずつとしましても約四百坪の地面に過ぎません、薄田十五頃と申しますと日本のどのくらいの面積に当りまするでございましょうか、佐久間象山先生は日本の五百石ぐらいだと仰せになりましたが、ある人に伺いますと、一頃は田百|畝《せ》のことだそうでございます、その一畝というのが日本の一畝と同じことでございますかどうか、日本の一畝は当今では三十坪ということになっておりますが、支那の一畝は百坪或いは二百四十坪だという説を承ったこともございますが、なんに致せ蜀の時代と致しますると、今から千七八百年もの昔でございますから、私共にはとうてい本当のところはわかりません、よってこれをどこまでも日本面積として考えてみますると、一頃百畝すなわち十五頃は千五百畝となるわけでございます、その千五百畝を日本式の坪数に引直してみますると四万五千坪でございます、これに前の桑田四百坪を加えますと、四万五千四百坪になる勘定でございます、その四万五千四百坪を、今度は日本の反歩に逆算してみますると、一反歩を三百坪と致しまして、三千坪の一町歩、三万坪の十町歩、あとの一万五千坪を反歩に引直しますると三五の十五で五町歩、そう致しますると四万五千坪は即ち十五町歩、それに四百坪を加えますると十六町三畝十歩の土地を諸葛孔明様は持っておいでになりました。十六町歩と申しますると、日本の国ではまず中農以上の大地主の部類に属する地面持でございますが、かりにこれを一反歩五俵二石取りと致しますと、一町歩の二十石、十町歩の二百石、五町歩の百石でございますから、三百石取りの資産なのでございます。三百石取りと申しますと、日本の侍の中通りの身上に過ぎないのでございます。二千年近くの昔とは申せ、四百余州の支那の国を三分した天下の宰相が、三百石取りの知行《ちぎょう》で甘んずることを心得ておられたということによって、いかに諸葛孔明が清廉潔白のお方であったかということがよくわかるのでございます。それで御自分だけではない、一家一門を、不足を言わせないようにしつけて置かれたのですから、いざ[#「いざ」に傍点]となれば、自分も宰相の位をやめて、鍬《くわ》を取ってお百姓になれるだけの腕をお持ちになり、それからまた御子息たちをも地主様としてでなく、ほんとうに自ら働くお百姓として立って行かれるように、教育を為《な》されてお置きになったものに相違ございません。仮りにまた、只今かぞえてみました孔明様の御知行を、支那面積に見積りまして、三倍、四倍と評価を致してみましたところで、千石前後でありまして、日本で申しますと、中藩の家老どころに過ぎないのでございます。諸葛孔明は支那三千年、第一等の宰相と称せられておりますが、お百姓としてもまた立派な一人前のお百姓でありました。その力でございます。でございますから、まだ出廬《しゅつろ》をなさらない時分の毎日の生活と申しますのは、晴れた日には自分から陽当りのいい前畑に出て躬耕《きゅうこう》を致し、雨の日には自分の好むところの古今東西の書物を取ってごらんになる、それだけの境涯で楽しみが余りあって、それ以上には全く求むるの心がございませんでした。求めなくともよろしいのです、それ以
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