れると、ここへ来るまでには、鬼に喰われるのが当然で、喰われないで無事で来たことが意外であったというようにとれる。
 もしまたこの質朴な田舎男が、仮りに鬼の化け物であるとしてみると、まさにこれから人を捕って喰おうとしながら、表向き、こんな空々しい言葉を吐くのが、もう既に人を喰っている。
 七兵衛は面憎くその男を見直そうとしたが、どうも、憎めない。どう見直しても、鬼がこんな模範青年のような人相に化け得られるはずもなく、またその必要もあるまい。そこで再び、鬼というやつは婆様に化けたがるものである、現に安達の一つ家は、鬼婆アを主《あるじ》としてはじめて有名であり、渡辺綱《わたなべのつな》をたばかりに来た鬼も、婆様の姿をして来たればこそ有効である。世に鬼婆アというものはあるが、鬼爺イというのはあんまり聞かない。まして、鬼がこんな凄味の利《き》かない模範青年に化けたってはじまらないじゃないか。
 でも、無気味な感じは持ちながら、七兵衛は、あんまり遠慮もせずに、炉中へ土足のままふんごんで、あたらせてもらいました。
 真黒い鍋の中で、何かグツグツと煮ている。無論、米ではない、粟でもない、さりとて稗《ひ
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