よく、まあ、鬼にも喰われずにござらしたのし、お前さん、岩見重太郎かのし」
「いや、どうも、おかげさまで――」
 岩見重太郎呼ばわりまでされたので、七兵衛も内心いよいよ転倒恐縮せしめられていると、無雑作にガラッと戸をあけて、面《かお》を現わした主は、鬼どころではなく、人間も人間、人間の中の極めて温良質朴な男です。
「今晩は……」
「よくまあ……」
「恐れ入ります……」
 充分に身構えをして見直したのですが、やっぱり、山里に見る普通の百姓|体《てい》の若い者以外の何者でもないし、その肩越しにのぞいて見ても、しきり戸棚の彼方に、人骨がころがっているようなことはない。炉にはよく火が燃えている。これが銀のような毛を乱した婆様でもあると、凄味も百パーセントになるが、こんな普通平凡な田舎男《いなかおとこ》では、化けっぷりに趣向がなさ過ぎる――
 と思いながら、七兵衛はこの一つ家の中へ入りますと、男が非常に親切に炉辺に招じながらも、口に繰返して、
「よくまあ、鬼に喰われませんで……」

         百五十一

 おかげさまで鬼に喰われもせずここまで来たことはごらんの通りだが、そうそう繰返して言わ
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