東西南北がたよりになるのは、そのうちのどれか一方に目的がある場合に限るので、東西南北いずれの方へ出たら近路につけるかという観念のない時には、東西南北そのものが指針とはならないのです。
 長州の奇傑|高杉晋作《たかすぎしんさく》は、「本日東西南北に向って発向仕り候」と手紙に書いたそうだが、最初からそういう無目的を目的として発向するなら是非もないが、少なくとも今の場合の七兵衛は、いかに生来の怪足力とはいえ、歩くことのために歩いているのではない、どうかして無事に人里に出たいものだ、正しい方向に向って帰着を得たいものだ――と衷心に深く欣求《ごんぐ》して、ひたぶるに歩いているのです。
 東西南北のいずれを問わず、ともかく何かひっかかりのある地点へ出てみたいものだと歩いているのです。ところが、やっぱり原は呆れ返るほど広い。
「安達ヶ原は広いなア――」
と七兵衛が、今更の如くにまた呆れた時分に、日は野末《のずえ》に落ちかかりました。

         百四十八

 常の七兵衛ならば、足に於て自信があるように、旅に於ても、その用意のほどに抜かりはありませんでした。
 たとえば、この行程幾日、もし間違
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